第54話

文字数 1,056文字

「絵美には謝ったのか。どうなんだ?」
 言った瞬間、絵美に聞いておかなかったことを後悔したが、絵美がありのままに話すともかぎらないし、自分がそれをすんなりと信じるとも思えなかった。絵美はとにかく仕事に戻ると決めた。愛情をそっちのけにして、今どうするかを考えるように、誠司が働きかけてきた。だから、なにより、それを娘婿から聞くのが一番癪にさわる! ふいに公園の方で子供のけたたましい声がした。誠司はそっちを一目見ると、つかつか歩きながら道の左から右へと移動した。
「あれは君に会いたがってるのか? それとも絵美に」――誠司は頭の中で舌打ちした。無意味な疑問がつぎからつぎへと蠅のようにわいてくる!
「いま絵美の復帰を祝うパーティーの話が出てるんですが、お父さんも協力してくれませんか」
「それはまた、あの回りくどいサプライズとかいうやつなのか。どうせ絵美はのけ者なんだろ」
「絵美は知ってます」
「絵美のためなら喜んでするが、君の浮気の挽回のためなら断る」
 誠司は威勢よく言ったものの、はげしく迷った。親だから見守っているだけでいいとは思わない。人と人の関わりだ。不義理な奴らこそ思いやりをお題目にして面倒を避けている。しかし――
「君が音頭をとってやればいい。私にはそんなことを喜ぶかどうかわからん」
 いや、わからないのではない。私は絵美が喜ばないのを知っている。自分でも気づかないうちに、井坂に答えを求めていた。井坂は一身に責任を背負って、その強靭な胸に、槍のひと突きを覚悟しているかのようだった。やはり考えることは同じだ。やめさせる理由をさがしているにちがいない。
「いやの一つも言えないのか。いったい誰が店のオーナーなんだ」
 誠司は、雨の日に滑りやすそうな敷石を横断し、マンションを貫く区画をずんずん歩いた。客が苦しみから絵美を救い出そうとしてのことだし、絵美自身がそれに立ち向かっているのだから、やめさせるのが正しいとは思えない。自分が養ってやるから子供をつれて帰ってこいと、娘から人生を奪いとることだけはすまいとしてきたのではなかったか? むしろ、軟弱な男たちのほうが尻込みしている。
「こんなややこしいときに!」
「千佳のことは忘れてください。あいつのことはおれが――」
 その瞬間、誠司はうしろに向かって右のつま先をつきつけた。井坂がくたびれたように立ち止まった。
「おれが、なんだ?」
 根拠のない約束をする気なのか。誰のせいでこんなことになっているのか。あと一言でも発したら、やかましい、と怒りが沸点に達していただろう。
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