第2話

文字数 1,420文字

「井坂くんはどうしてる?」
「子供がいるのに電話一本よこさないんだよ。あたしが知るわけないじゃない」
 絵美は、どういうわけか、夫の名前を聞くだけで笑いがこみ上げるようだった。
 誠司がおもむろに電話をかけはじめると、「つながらないでしょ」と絵美がこらえきれずに笑った。「スマホ落としたんだって。ほんとばかだよね。こんなときに」
「え? 今どこにいるか知らないのか」
「あいつが女連れ込んでおいて出ていけっていったんだよ! 子供つれて出ていけって!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。じゃあこれからどうするんだ」
「お父さんは平気なの? 男って男に甘いよね。お父さんも浮気したことあるの」
 誠司はとっさに「ないよ」の一言が言えなかった。それは男としての見栄だろうか。娘の剣幕におされたせいだろうか。いいや。娘がいま経験していることについていけないせいだ。自分は妻を亡くした。娘は家をとび出した。保護者ではなくなっているかもしれないが、今でも親子であることにかわりなく、そこに奇妙な一致があった。
 孫がぐずっていた。妻との寝室を娘たちに明け渡していたから、誠司だけは耳をつんざくような泣き声を遠ざけることができた。孫は新しいおむつに替えても泣きつづけた。「おい、何か食べたか」と尋ねたが、返事はなかった。誠司はキッチンへ引き返して、大きな鍋に水を汲んだ。とにかくパスタなら食べるだろう。子育て中の母親の健康を考えて、いろいろ加減しながらつくった。
 誠司は今気づいたかのように、食べかけのチョコチップクッキーを食料棚の奥にしまった。スナック菓子は、娘がここへきた夜からあった。
「おれはもう働けないぞ」
「どこか悪いの?」絵美は誠司をじっと見た。
 誠司の得意のシーフードパスタを黙々と食べて二時間がすぎたころ、絵美は「一時間で帰る」と言い残して、夫から奪った車で出ていった。
 絵美はおおむね約束の時間を守った。
「起きなかった? まだ大丈夫だね」とそっけなく言った。
 明らかに絵美の様子がおかしかった。それでもソファに沈んだまま動かないでいるのが一番だとわかっていた。なにもかも時間が解決するのに、なぜそんなことをするのか? ここにいるのは自分一人だ。とにかく俺の家だ。誠司は足の小指をぶつけて体を折った。ノックをして、返事を待たずにドアを開けた。どのくらいそうしていただろう。孫がリビングのベビーベッドで泣いていることに気づき、突然われに返った。それは娘の声ではなかった。
 そこにもテレビがあった。絵美は、窓の端までカーテンをひき、明かりをつけてもいない寝室にいた。ずん、とその拳が枕に飲み込まれ、窓側のベッドがきしんだ。
「なにがあった」
 夫のところだったのだ。まさか女と鉢合わせしたのか。一回きりの火遊びだったはずだが。それとも――
「まさか相手の女のところに押しかけたんじゃないだろうな」
 娘の嗚咽がとまった。
「知ってるの? どこの女か?」
「お前が知らないことを俺が知るわけないだろう」と誠司は言った。「どうなってるんだ。ほんとに浮気なのか。大げさに考えすぎてるだけじゃないのか」
「もしかしてあいつと連絡とってないよね」
 絵美が立ち上がった。誠司は自分がごまかしているのを知っていたから、何も言わずに後ずさりして娘を通した。
 けっして乱暴にしたわけではなかったが、ドアはふたたびゆっくりと開いた。娘が孫をあやしているのを見て、ようやく誠司の緊張が解けた。
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