第17話

文字数 913文字

 誠司はヒステリックな怒りとともに、絵美がいないのを悟った。井坂の姿もなかった。遠くのほうで「あ、あの人?」とささやくのがたしかに聞こえた。
 入ったとたん、二人の部下を引きつれた男が、誠司と対峙した。誠司は一瞬にして状況を読みとらなければいけなかった。いきり立った者につける薬は頭から冷や水を浴びせてやることだ。誰からも重きを置かれていないのを発見させてやることだ。
「そう騒がないで。すぐ片づけるから落ち着いて」――なぜそれが言えるのか? わからないが、誠司はそう答えていた。
 床の液体を見ながら踏み広げていることに気づいた。この場に立ち込めるムードの影響からか、自分がこぼしたのではないと言い切れない。いや、自分がしたことのような気がする。どちらにしろ同じだときめつける恥ずかしさと、戸惑いにおそわれながらも、頭のどこかでは小ざかしい時間稼ぎをしている。
「ここのマスターが血を流してんだよ。いきなり女がジョッキを投げてとびかかったんだぞ。あんた医者なのか」
 さあっと血の気が引くのを感じた。医者に生まれたらどんなによかったか、と誠司は思った。
 髪の一端を生クリームの要領でひねった四十代の浅黒い肌の男。ブルーベストの精悍な体つき。ファッションに造詣が深く、なおかつひょうきんで、実直な仕事振りが見てとれる。いきなり赤いアーチのドアから入ってきた救急隊員には、怪我人の家族である誠司が答えた。「かぞく?」二度も横柄な声で尋ねた。誠司が彼らを呼んだ訳を説明できなかったからだ。誠司は直感した。医療関係者よりさきに自分の目で絵美と井坂を見なければならないが、それができないということは、彼らを一刻も早く帰らせるべきなのだ。
 それから異様な静けさが立ち込める店内を見回したとき、ブルーベストの男の中ですべてが符合した。舌打ちして二度と誠司を見なかった。「おい、ここは客に無銭飲食させるのか!」紙幣を握ってどんどんどんとテーブルを打ち鳴らした。目鼻立ちがくっきりとした若い女性がすばやく動いた。従業員がいたのだ。
 客たちが状況を説明している声が、誠司にはちっとも聞こえなかった。すっかり耳がおかしくなっていた。理解が追いつかなかった。
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