第26話

文字数 1,069文字

 誠司は、家から持ってきたファイルを、ようやく絵美に見せた。集めた保育園の資料や、入園申込書の数々を、小さなテーブルに広げた。
「あたしがいるじゃない!」
「夜にかえでのお守りをしながら働くなんてできないだろ。うちで見てやるにも限度がある。父さんはあまりかえでに好かれてないからな」
 困惑の表情を浮かべた絵美が、頭を一方から、よりつよく一方へと傾けた。「あたしは」目のふちが赤くなっているのが、痛々しいほどやつれて見えた。
「そう怒るな。どこかで働きはじめなければいけないだろ。ここで暮らすか。うちで暮らすか。なんだっていい。まだ仮定の話だ。保育園はあとからかえられる。だから自分の気持ちに正直になれ。あの店を手放せるのか? いま決めなければいけないのはあの店をどうしたいかだ」
「答えようがない。まだ無理」
「そうだな」
 誠司は市の申請書類をとり、かいつまんで説明した。「申し込んですぐにとはいかないからな。すこし待たされる。それだけ知っておいてくれ」
 絵美はかえでを抱き、ふり返ってテーブルを見た。
「さて、食べ物が買えなくなるまえに父さんのところに帰るか。その金が底を突いたらかえでの命にかかわるからな。病院にかかったらどうする? かえではほんとによくがんばってる」
 誠司がさきに外へ出ると、絵美が保育園の資料をもって出てきた。かえではぐずらなかった。やはりぱっちりと目を開き、絵美の肩越しにつぶさに見ていた。
 車が走り出すと、誠司は言った。
「店の近くでおろしてくれ」
「今日もいくの」
「いくぞ。おまえたちに食わせてる分を自分で食ってとり返してくる」
 顔と名前をおぼえるのが得意な誠司が、おしゃべり好きな客につかまっては二三杯飲むので、自宅に帰ってもほとんど食べなかった。絵美が晩御飯をどうするか尋ねたのだった。誠司はしばらく考えてから、いらないと答えた。
「なんか楽しそうだね」と絵美が言った。
「そうでもないぞ」
 一人で飲むほうが性に合ってる。若い酔っ払いしかいない。誠司はそう思っている間に、口に出すタイミングを逃した。
 車は踏み切りへと直進するプラタナスの並木を走っていた。「停めてくれ。すこし歩くよ」誠司は知ってる人間がいるんじゃないかと心配したが、絵美は何も言わなかった。
 急に車が左折した。絵美はすぐにブレーキを踏み、道を塞いだ。車内に沈黙が下りた。バーは二本先の道を駅の方角へいったところだった。
「今日は自分の家に帰る。だからあいつにもそう言っといて。こなかったらそういうものだと思って判断するから」
「わかった。気をつけて帰るんだぞ」
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