第27話

文字数 738文字

 その夜は、おいしい料理や慣れ親しんだ笑い声こそないものの、妻とたくさんの話をした。このときを与えてくれた妻に感謝した。
 次の日も、そのまた次の日も、絵美は誠司のマンションにあらわれなかった。
 ひょっとしてもう絵美がいるんじゃないか――? 誠司はバーの階段を下りていき、胸を高鳴らせてドアをくぐった。そこにはさぞかしちやほやされてきたであろう、井坂の甘ったるい笑顔が待っていた。
「大きくなってて見違えたか」
 誠司は皮肉を言いながらも、喜んでいる井坂を見てうれしくなった。ひとたび笑顔をつくれば、苦しい状況であろうとあとから気持ちがついてくるという、あの心理現象か。ならば今の自分は、頭を撫でられて尻尾を振っているわけだ。これでは娘をつうじて裏切ったも同然の男に尽くしはじめるのも時間の問題だな。
「ちゃんと遊んでやれよ。屁理屈をこねるまであっという間だぞ。子供との時間はとりもどせないからな」
 腹が減っていた。なにやら井坂がチーズの製造元について解説していた。誠司はよく見もしないでカナッペを口に放り込んだ。なんでもいい。なにを食べても旨く感じる。
 絵美が頻繁に友達と会っていることを聞くと、誠司は眉根を寄せながらも無理やり笑った。
「一人いるんだ。私は好きじゃないんだが」
 あずみが自宅に入ったときと、近くまで絵美を迎えにきた日のことを、誠司は話した。するとなにを思ったのか、絵美がまだ心を開いてくれなくて悩んでいると井坂が打ち明けた。誠司はしばし宙をにらんでいた。親としては無理からぬことに思えるが、仕事を一段階前進させ、家庭でも家族が一人増えるという、この肝心なところで脇目をふってしまうような娘婿には、それがそんなに奇妙に思えるのか? すでに絵美と修復不可能な関係なのか?
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み