第59話

文字数 1,110文字

 誠司は観念した。まだ数日は避けているつもりだったのに、こんなにも早くまた二人で顔を突き合わせるときがくるとは。自分を取り戻す時間さえ与えられないのが腹立たしい。弱みを握られたようなこの感覚。会うごとにこちらの限界を試されているようだ。
 無様に取り乱したのはどちらも同じだ。井坂は目下であるのをいいことに、あくまで〝留保つき〟の娘婿を継続するつもりだ。いつだって現実はそうだ。なにもかもすっかりぶち壊してしまうか、こちらが変わるしかない。それなのに、咳払いをした拍子に激しくむせ返ってしまい、一向に話を進められない。
「相田千佳は今度の土曜日のことを知ってる」
「簡単なことです。公式には臨時休業としてるから客のSNSを見てるんでしょう」
 井坂が氷を割ってミネラルウォーターを注いだ。誠司は冷たいグラスに口をつけた。いつもよりエアコンの調節が弱いのか、誠司はじっとりと汗ばんでいた。
「まだつづいてるぞ。もちろんこれくらいでやめるようなら、そもそも面倒を起こさないだろうがな」
 井坂の過去を捏造して、絵美に吹き込むチャンスを手にしながらも、それをしなかったのだ。今も自分で何がしたいのかわからないにちがいない。それは誠司に、鋭い刃物の切っ先を背後に感じながら、どこへとも知らない場所へ向かっているような感覚を呼び起こさせた。
 誠司は怪訝そうに電話を切った。「絵美が二人できてくれといってる。いったい何をしてるんだ。まっすぐ帰ってくればいいものを」
 しかし、誠司はスマートフォンを置いたきり動かず、井坂も傍を離れなかった。
 そのうち、若すぎたとか、どうしてあんな女に深入りしたのかと、井坂が自問自答をはじめた。「時間も金もすべてつぎこんで支えたのに、立ち直るどころかギャンブルまではじめて――」井坂は明けても暮れてもグラスを磨いていた。
「あいつは道連れを欲しがってる。自分よりほんの少し先をいく道連れが」
「やはり仕事はしてないのか」
「男に利用されて捨てられるのを仕事にしてるような女なので。親が経営者なんです。あいつは一生遊んで暮らせますよ」
「そんな女にわずかな一時期でも人生を貢いだわけか」
 誠司は目の周りをぐりぐりと押さえた。何らかの中毒なのかと尋ねたところ、それがある種の的を射ていたらしく、誠司は井坂の胸のすくような笑顔を見た。とうに過ぎ去ってはいても、ある一時期にずたぼろになるまでだったひどい経験が、わずかにでも報われた――そんな暗い感情があらわれていた。誰かほかに当時のことを知る者はいないのだろうか?
 井坂は、誠司のくぐもった声を聞き洩らすことなく、「一人もいません」と答えた。誠司はもう一度つよく目をつむった。
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