第21話

文字数 1,862文字

 マンションに着いてすこしは落ち着いたが、中は家を出たときのままだった。落ちている衣服をとりあげる気力すらない。何もかもが散らかっていて、疲れきった頭で考えていると気が変になりそうだ。とくに絵美が残していった痕跡――冷蔵庫の食べ物だけならまだしも、子供が好むスナック菓子が狂気を生み出したかのように、むかむかが募った。嘘にきまっているのに、どうして娘の怪我を心配しているのか? もし本当に何かがあったのだとしたら? あるいは、それがかえでの身に起きたのだとしたら?
 誠司はスマートフォンをタップした。しかし、いま電話するのは、どうしてもプライドが許さなかった。――いったいいつ誰が考えついた嘘だろう? とにかく娘の行いによって、何もかもが変わってしまった。
 誠司がついに何か食べようとしたときは、娘婿が病院で死んでいるかもしれないと考えていた。それは破滅を意味した。日付が変わってもまだ眠ろうともせずに起きている。しかし、いずれはどうにもならないことで思い悩むのをやめるのだ。緊急の電話でたたき起こされるとすれば、ちょうどそのころだ。誠司はそう思うと、なぜか自分でもわけがわからなくなるくらい安堵した。テーブルに置いたスマートフォンは、手を伸ばせばすぐにとることができた。
 誠司は下着を替え、自分で畳んでクローゼットに入れておいた服に着替えた。絵美にかけた電話はやはりつながらなかった。
 夕闇が迫り、外灯や店の明かりがつきはじめていたが、まだ外は明るかった。誠司はかえでを置き去りにした階段を下りた。
 井坂は、おそらくアカンサスと思われる柄のバンダナで包帯を隠し、おなじみの仕事服を着てカウンターの中を動き回っていた。
「タクシーできたよ」
 誠司は容赦ない眼光でにらみつけて真正面のスツールにかけた。井坂が機械的な手つきでレバーをひねり、最初にコースターを、つぎにくびれた金色のグラスを、照明が照らすカウンターに一本の腕で置いた。誠司は、あくせく働くことにしか逃げ場をなくしたこの囚われの男に、一種の残酷な感情を抱きながら、片時も目を離さなかった。
 気の利いた肉料理やウインナーをテーブルへ運び、客がナイフとフォークでつついていた。誠司は、食い物はいらないと言って娘婿をグリルからふり向かせたときも、まっすぐに視線を捕らえ、今この瞬間に食欲がうせたかのように、そこに釘付けにした。
 五分ともたずに飲み干した。誠司は差し出された二杯目のグラスをとり、席を立った。
「私がくるとは思わなかっただろうね。迷惑だったかな」
「いえ、そんなことは。お待ちしてました」昨日見かけた男が、椅子を端へ寄せながら苦笑した。血を見るのが好きなわりには、早くも酔いが覚めている様子だった。
「あのあと大丈夫でしたか。その――」
 そのいかにも自信なさげな男の発言は無視して、誠司はしゃべりたいようにしゃべった。
「店は元どおりだし、井坂くんも元気で安心したよ。みんなもそう思ってるだろうね」
「ゆうべは怪我しませんでした」今度は仕事帰りの若い女性が言った。
「私が? ないない」と誠司は笑って否定した。「年寄りのことを肘があたったくらいで死ぬみたいに考えてない? こんなにぴんぴんしてる。きみだって見てたのに、どうしてそう思うの?」
「あんなに絵美さんが乱れることって、今までになかったので」
 誠司は気難しい顔になって背筋を伸ばした。私情だろうと何だろうと、客に遠慮などしていられない。こいつらは客の範疇からはみ出している。少なくともここにいる五人は、と誠司は思った。
 もとはといえば、絵美が育児休暇をとっている最中の出来事だった。それ以来、店で寝泊りして働きづめの井坂を彼らは心配していたが、誠司は少しも心を動かされず、事実としてのみ聞いていた。そこには、彼ら自身の言い逃れも、ふんだんにちりばめられていた。
「娘が電話に出ないんだよ。だから」と誠司は重苦しい口調で言った。「そのうちまたうちにくるかもしれないが、今日はないな。誰が娘と連絡とってたの。いろいろ娘につたえてたのがいるんだろ。――きみか。じゃあ、すぐうちに帰るように言ってくれるかな。妙なところにいたら危ないだろ。子供をつれてるんだから」
 その男は、ラインならいいですよ、と言った。
「娘とも電話なんだろ」
 誠司はとくに意味もなく食い下がり、ただいたぶって眺めるために、電話番号を聞き出した。
「細かいことはいいんだよ。きみから話してくれたら今日にも帰ってくるかもしれないんだから。じゃあよろしく頼むよ」
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