第61話

文字数 1,154文字

 すでにバーを出てから、五分か、それ以上遠くまで歩いていた。
「ところで、どこまでいくんだ?」
「もうそこです」と井坂がぴくんと顔を上げて言った。「阿江さん。長い間ここで喫茶店をしてた人です。店はもう手放してますよ。まだぜんぜんこの辺りのことを知らないのに向こうから挨拶にきてくれて。今もよく絵美に会いにくる」井坂はそう言うと、土の路地道に入って、さっと誠司をふり返った。「ですが、その当時のことと、自分が商売をしていたことをおぼえてない。あれです。このさきに見えませんか」
 家が立ち並び、鉢植えやラティスがせり出している、ある住宅の前に、絵美とかえでの姿があった。こちらに気づいた絵美が、前を向いて楽しそうに笑った。その瞬間、「たぶんお父さんにもまったくそう見えないと思いますよ」と井坂が言った意味がわかった。男の誠司より短い銀髪。すらりとした体形。自分よりずっと若く見える美しい老婦人。
 阿江が「楽しみだねー」とかえでのほっぺをつつくと、絵美が応じた。
「子供をバーにつれてくるなってうるさいんですよ。ほら、もう怒ってる」
 たしかに誠司は禁止した。バーに子供を連れてくるなといって何が悪いか。私にはそれくらい意見する権利があるはずだ。しかし、なぜか今ここで蒸し返されると、うしろめたく感じた。
「こんな小さな子供を酔っ払いにあずけられるか」
「ほかにどうしようもないなら、仕方ないけど――」老婦人も遠慮がちに調子を合わせた。
 大学生の女の子が原付バイクを押して帰ってきた。頃合いを見て誠司がひきとった。井坂が片腕にかえでを抱き上げ、大学生の女の子が家に入っていく途中、かえでの口をパクパクさせた。絵美が学生生活について尋ねると、そこでまた話に花が咲いた。誠司にとっても思いがけず楽しい語らいになっていた。しかし、人には誰しも事情がある――誠司は土曜日のことをまったく度外視して言った。
「娘もこういってることだし、よかったらまたきてください」
  阿江が接客を心得た裏表のない心で「ありがとう」と言った。
 日用品の買い物や、会う人ごとに、あるいは、そのとき目が合っただけで申し開きを強いられるのは、想像するよりはるかに煩わしいものだ。思いやりで人がどれほど傷ついているかを知れば、まともではいられない。
「誰を呼ぼうとかってにすればいいが、あの人はこないだろう」
「どうしてそう思うの?」
「家族がみんな出かけてるって話だったじゃないか。本人も気が進まないようだったし」
「ほんとにそう思った?」
 学生の孫が時間を聞いていたが、いくとは言わなかった。ほかの家族が異なる判断をするだろうか。
「だからそこをどうすればきてもらえるかが知りたいの」絵美が曇りのない眼差しで真剣に質問した。「どうしても阿江さんにきてほしいのよ」

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