第68話

文字数 4,091文字

 車がはずみ、つよい日差しから一転して、建物の内部に入った。
 誠司は誤ってすべてのドアをロックした。
「いちいち時間稼ぎするなよ。のろまが!」
「自分の車じゃないのにわかるか」
 誠司はシートベルトを外して車から降りた。車高の高さに思わず膝からくずれ落ち、つんのめった。傍の車体に手をついた瞬間、目がくらむような痛みが走った。いつものパーキングでかえでを降ろそうとしているところへ、いきなり金属スティックを突き立てられたのだ。運転中もハンドルを回すごとに体が引き攣り、今も冷や汗が止まらない。左の肩に二撃食らったはずだ。そこから染みがひろがっていくように体が熱を帯び、集中力を保てない。自分の記憶をひっぱり出すのに異常なほどエネルギーを吸いとられる。しかし、ナイフでなかったことだけはわかる。ナイフで刺されていれば、出血が人目について、まだどうにかなっていたものを。誠司は急に笑いたくなった。お腹をこわした老人にしか見えないか。まったくその通りだ。
 相田千佳がかえでの背中をさすって抱いていた。「気でも狂った?」不機嫌な娘と、老いさらばえた男親の、平凡な組み合わせの家族であることを疑う余地はなかった。
「知ってる人間に会ったらどうする?」
「一人もいないじゃない」
 冷淡で鋭い目つきがたえず素通りして、胃がきりきりした。地方の富裕層が買うようなマンションでもあるまいに、ここの駐車場はいつも人気がなかった。
「年寄りの一人暮らしだ。面白いものなんか何もない」
 かえでを守れない状態に陥るのが恐ろしかった。相田千佳が持っているスマートフォンから青白いスパークが出るのを、車の中で見ていた。スマートフォンのケースが、そっくりスタンガンになっていた。小さな子供があれを食らったらどうなるだろう? 自分の体を盾にして、子供まで通電するのを防げるだろうか? こんな腕でかえでの体重に耐えられるのか?
 誠司は重い金属扉を押し、苦悶しながら力を蓄えた。
「今から誰に何を聞かれても一切しゃべらないで」
 相田千佳が警告するようにスマートフォンを出し、左手に持ち替えた。誠司が五十センチほどの低い階段に目を移した瞬間、肩にふたたび鋭い打撃がくわえられた。階段に倒れこんだところへ、さらにもう一撃。今度は右肩からほとんど首に達した。誠司は息をすることも、後ろを見ることもできなかった。
「すこしだけ時間をあげる。落ち着いたら下を向いてエレベーターに向かって歩いて」
 誠司はもはや無力だった。
 エレベーターの中に人はなく、ドアが閉まるとき、憎しみをこめてこちらを見ている男女の姿があった。その二人は大きな袋いくつも提げて、ぎゃんぎゃん泣いているかえでの声を我慢するよりは、ほんの数分ばかり帰宅を遅らせることにしたのだった。
 誠司の手から家の鍵がすべり落ちた。相田千佳は足でひきよせて鍵を拾った。
「こっちにきて。見えるところに立って」
「かえでを危険な目にあわせないでくれ」誠司は絞り出すような声で言った。
 相田千佳は、リビングの中央に誠司を立たせ、黒いリュックを降ろした。かえでを抱いたままで、依然としてその手にスマートフォンをもっていた。
「ここはかえでの家だ。自力で逃げることもできない。はなしてやってくれ」
「やっと命乞いしたね。最後までしないのかと思って心配したよ」
「見ろ。この怪我で腕が両方とも利かなくなった。どこかでかえでを奪って逃げるつもりだったが、それももうできない。下に降ろしてやればかってに泣き止む。それに慣れてないと耳が痛いだろう」
 相田千佳は冷蔵庫からミネラルウォーターをとり出して飲んだ。こちらを油断させて試しているようだが、手が震えていて、気もそぞろに感じた。ふいに極限が押し寄せた誠司は、制止の声も聞かずに、ソファに身を沈めた。ペットボトルが水を飛び散らせてとんできた。しかし、かってに卒倒してどうにかなってしまうよりは、こうするのが双方にとっていい選択にちがいなかった。
「どうするつもりかしらんが、子供なんかなんの役にも立たない。私がどこへでもいく。だからかえでだけは」
「あたしとあんたがどこへいくって?」相田千佳がかすかな怒りをこめて反発した。この成功をよろこんでいると思いきや、厄介なものがついてきたと言いたげに、いよいよ途方に暮れた様子でこちらを眺めた。「あんた死にたがってたんだよね。あたしが見ててあげるから、ここで死んでしまえよ」
「そんなことが目的だったのか。ずっと絵美につきまとってきて――」誠司は相手の真意を知ろうとして、首が引きちぎれるような痛みを無視して、ソファの上でもがいた。「私は死んだってかまわない。大げさでも何でもなく、本当に妻と一緒に死んだんだ。それで何もかも失った。もう何も――未練なんかない。そうだ。自殺を条件に開放してくれ。かならず死んでみせる」
 相田千佳はベランダのカーテンをすこしだけ明け、エアコンを操作した。明かりはつけなかった。
「今日のことは警察につたえないと約束する」
「死ぬのに?」
 相田千佳がリュックからオレンジ色のロープをひっぱり出すと、誠司はパニック寸前になった。先端にスプリングフックがついている。こんなものまで用意していた?
「よく考えてみろ。私がいま死んだら逃げられないじゃないか。かならず捕まる」
 自分の中に埋没している相田千佳には、その声が聞こえなかった。なぜバーへつれていこうとしたのか――。誠司は自分が犯したまちがいの結末を想像して目を覆いたくなった。
「その瓶は何だ?」
 涙で潤みそうになる目で一心に見つめた。脅しの道具にする硫酸だった。高ぶる悔しさをわきに追いやって、もっとよく見た。目的が誠司ではないとはっきりしたのは悲しい事実だった。誠司を始末しても、なお相手がつづける気でいるということだった。しかし、それを確信できたことは、この女の誤算にちがいない。あの瓶を奪ってベランダに突進するか? それくらいしても、今ここでかえでに手をかけられないのだ。かえでは生きてここを出られるにちがいない。それがわかったとたん、誠司は恐れなくなった。
「つぎは絵美を呼び出すのか」
 絵美にはここへ帰ると言った。もしかすると井坂が先に帰して、絵美がここへきてしまうかもしれない。それはチャンスでもあり、破滅でもある。だから、そうなる前に――
「ここはすぐに出てあんたを一人にしてあげる。あんたの顔なんか見ていたくないからね」
 一瞬、何かが笑ったように感じたが、相田千佳は能面のような顔で部屋を見回した。
「すこしでもその子に触ったら、あんたじゃなくてその子を傷つけるから」
 相田千佳はベランダの前に椅子とリュックを運ぶと、天井の大きな金具にロープをかけた。もう一つの金具は壁際にあって、ハンモックにもブランコにもなるものだった。相田千佳はこのリビングまで入ったことがなかった。そこに金具があるのは偶然だった。
「それは業者に頼んでとりつけさせたんだ。おまえが以前きたときにはなかったものだ。わかるか」
「――なにが言いたいの」
 命の重さがちがうということだ! こんな成り行きにまかせて生きてきた人間のすきにさせてたまるか!
「そのロープは自分で首を吊るためなのか。あまった分を切っておかなくていいのか」
 相田千佳は怒りもせずに、それどころか、今からはじめる行為に心を奪われているように見えた。あっという間に輪っかをつくって椅子を下り、かえでを抱えた。どこでおぼえたのか、金具との結び方も、人の体重でほどけたりしない確かなものだった。
 誠司は顔を歪めて腕を伸ばそうとした。腕が前より重くなっていた。誠司はソファとの隙間に右手を隠し、握っては開くをひそかにつづけた。しかし、一方の腕で体を支えなければ見ていることすらできず、その間にどんどん消耗していくのがわかった。――こんな自分に何がやれるだろう? 少なくともあのスタンガンを奪えたら救助を呼べる。
 誠司は自分でもよくわからずにソファから滑り落ちた。立てなかった。相田千佳はキッチンの隠し壁のところに立っていて、かえでを抱えている手でしっかりとスマートフォンをもっていた。硫酸を入れ戻したリュックも肩にかけていた。誠司と四五メートルは離れていた。
「この子を傷つけるっていったよね」
「待て。そんなに早くできない」誠司はしわがれた声で言った。「かえでに見せられない。自分の手を汚したくないなら、かえでを見えないところに遠ざけてくれ」
 のたうち回りたいほどの痛みが過ぎるまで、歯を食いしばり、床に這いつくばっていた。顔を上げた。相田千佳はやはりそこに立っていて、一歩も動かなかった。絶望がかけ抜けた瞬間、ぎゅっと目をつむった。「これだけはぜったいに譲らない。かえでが見ているあいだはぜったいに死なない」――誠司は目を開いた。
 キッチンの開口部から、スマートフォンをかまえた相田千佳がふらりとあらわれたとき、誠司は冴えわたる意識の中で、べつのものを見ていた。
 ドアの向こうに黒い影を見た。誠司はそんな姿をほかに一人も知らなかった。
――どこまで聞こえただろう? 声を張れないし、かえでまで泣き止んでしまっている。そして、大きな影も消えた。どうすればいい? どうすれば――? しかし、これ以上の鉄壁の壁はない。もうかえでの命は助かったのだ。
 相田千佳がとびかかれば届くところまで近づいていたが、誠司はまったく抵抗しないで椅子によじのぼった。ペンライトのように向けられたスマートフォンを奪おうともしなかった。かえでの安全を信じて疑わなかった。
 かならずこの女よりさきにかえでを見つけてくれる――
 ドアに向かってこの椅子を蹴りとばせ。思い切り叫べ。――キッチンにかえでがいる! キッチンにかえでがいる! 息を切らせながら頭の中でくり返した。
 誠司は全身の筋肉を引きつらせると、残された力でロープをつかんだ。
 ちがう! とっくに叫んでいいんだと気づいたとき、誠司が声を出すよりも早く、相田千佳がとびかかって椅子を蹴った。
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