第39話

文字数 1,584文字

 井坂はなんのリアクションもせずに、子供が足にまとわりつくままにしていた。
「またその格好で出歩いていたのか。よくそんな――」誠司はなにか適当な言葉をあみ出そうとして必死に考えた。「そういうのは若くなくなるにつれて自然と関心をなくしていくものじゃないのか。店を新しくしたんだ。もういい加減やめにしたらどうだ。今がいい機会だろ」
 銀色のごてごてした指輪やピアス、いかにも暑苦しく、若作りな髪、それに年中日焼けしているのを見て、何も思うなというほうが無理だった。そうはいっても、絵美には当てこすりに聞こえたらしく、じゃあどんな服装ならいいのかと聞くので、ひとまずそれ以外なら何でもいいと誠司は答えた。
「まだ白いTシャツに黒の長袖のほうがましだよ」
 井坂がフッと頬を緩めた。
 誠司は絵美を見た。一日の締めくくりにつきものの気だるい疲労しか、読みとれるものはなかった。
 いずれにしろ胃袋を満たさなければいけないし、眠らなければいけない。誠司はシャワーで水をかけるまではしたが、絵美と交代して浴槽も洗い終えていた。誠司は沈黙をものともせずに言った。
「お母さんはどうしてる? 元気にしてるか」
「いま関係ないでしょ」と横から絵美が言った。
 井坂は、離婚した母の元で、多感な十代の大半を過ごしていた。高校を出て以来、さまざまな職に就き、最後に塗装工の仕事にしがみついたのも、今のバーをはじめる資金を稼ぐためだった。井坂から働きづめだった親に感謝しているとはよく聞くが、誠司はそれ以上の何かを聞いた覚えがなく、現実には育ててくれた女親を疎遠にしていた。それが本当に今回のことと無関係だといえるだろうか?
「お母さん、まだ仕事をしてるのか」
「絵美と話をしたらやめるかもしれないと思ったんですが、かわりませんね」
 絵美がいつか話していた。会いにいく当日に疲れすぎて起きれないのよ、遅れるってあたしに電話させて、しかもお母さんのほうがあたしに謝ってるのに何も言わないの……。井坂が女親を苦手にしていること。あるいはそう思い込んでいること。仕事にたいしては真面目で、客の扱いにも慣れている。早く親に楽をさせてやりたいとの考えが、ときに疎ましくなるときがある。男が陥りがちな一方的な解釈。感情のもつれ。誠司は今も井坂の親の近況を聞きながら不安を感じた。
 誠司は話を戻した。
「きみが非難されるような関わりはなかったんだね。人様に聞かれて困るような行為は本当にしてないんだね」
「してません。まだ二十だったんですよ。すると思いますか」
「きみの個人的な意見じゃない。悪意をもって首をつっこんでくる輩に蒸し返されるような要素をぜんぶ思い出してみろ。それを聞いてるんだ」
「おれは何も――」井坂の声には焦燥がにじんでいた。
「じゃあ金の貸し借りは?」
「ありません。むしろ金をとられたのはこっちです。たった一時期であっても、おれがぼろぼろになるまで働いてあいつを支えたんです。そんな女から逃げ出すのが間違っていますか」
「どうだろうな」
 誠司は少しも感情を動かされないばかりか、相手の必死な様子にかすかな反感を覚えた。逃げ出すのが間違っていたか? 少なくとも、何をどう判断するかはこちらが決めるのであって、この男ではないと思った。それを自分にさせろだと? そう言っているのか?
 誠司は、残された時間と、ずいぶん限定的になってしまったこれからを思った。たったそれだけだった。あたかも、この男を煮るも焼くも好きにできると思いこむこと。娘がとんでもない恥をかかされたというのに、こちらにできるのはそれだけだった。あの女に借りはないのが本当だとしても、絵美にはあるだろう。それを今ここで思い出させてやらなければならないのか?
「ホストをしたことはある?」
「――ありません」
 絵美が「そんなこと聞いてどうするのよ」と物憂げに言った。
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