第65話

文字数 3,090文字

 誠司はコーヒーの豊かな香り楽しみながら、日々の移ろいに思いをはせた。前に住んでいた家は独り身には大きすぎた。今のマンションのほうが娘たちと適度な距離がとれている。思い切って飛び込んでみなければわからないことばかりだ。誠司は自ら大勢の中に分け入ってくる人間に魅せられていた。年の離れた彼らと、とくに用もないままおしゃべりに興じるなど、これまでの自分では想像できなかったと断言できる。
 これを妻が若いころから思い描いていた憧れの世界とするのは難しいだろう。現実は誰にたいしても例外なく厳しい。なんといっても商売だ。だからこそ、娘はより高いハードルを、さらなる理想を追い求めているともいえる。
 事後報告だったなんて嘘だ。最初に思い直すように説得できたのだ。理解がある父、自慢の父、そんな脚色をして一人でいい気になっていた? べつになんでもかまわないが、とにかくそれを一度もしなかった事実が、今の自分を居心地悪くしているようだ。
 自分の存在が、目に見えない小さな失敗となって、娘の上に降り積もっている。その自分がこの場にいるのを話したら、妻はどんな顔をするか。だから今日からしみったれた自分と決別しよう。
 誠司は、丸みを帯びたかわいらしい木の椅子をとってきて、入り口のわきに、窓に背を向けて座った。看板猫でも何でも、なってみせるつもりだった。
 井坂が車から食材を運び込んでいる段階で、さっそくいつもの顔ぶれが茶々を入れにきた。
「おっ! セクシー女優のアルバイトが入ったのかと思った」
 誠司は素早く横やりを入れた。「はやく結婚したいってぶつぶつ泣き言を吐いてるやつが、いつまでも高校生みたいなことを言うな」
「もたもたしてるとなくなっちゃうかもしれないよ」絵美もこれみよがしに言った。絵美がふたをとった深鍋はまだ冷えていた。開始は十一時三十分だった。「ひとまずカレー屋さんは今日だけね。つぎは未定」
「――食べました?」
 誠司は、高齢の自分にはいまひとつよさがわからないのだが――、ともったいぶって、わざと悩まし気な顔をした。だが、次の瞬間にはにっこりと微笑んだ。脳天を突き破ってくるような辛みと、風が吹き抜けるような爽快感があったと言い表して、休日まで用事をかかえている男たちを追い立てた。彼らが絵美に気をつかって、人が集まる前に挨拶だけすませにきたことはわかっていた。
 おつぎは、一年間の赴任生活が明けたばかりの、四十代の男だった。
「ちょっと海外にいたものだから」と恐縮しながら入ってきた。「これはちがいます。これは先週の家族旅行の土産。申し訳ないけど」そして、井坂と肩をたたき合って軽く抱擁した。
 何事だという顔をしている誠司に、井坂が説明した。
「奥さんの病気がいい方向へ向かってるんですよ」
「それは心配だっただろうな」
 しばらくすると、誠司は、絵美がいくつもの鍋を並べてしている細々とした作業に、意識を戻した。
 無事にこの日を迎えられてほっとした。ここなら悪意を不自然な笑顔でぐるぐる巻きにして様子をさぐりにくる不届き者は入ってこれまい。たった一人が醜い欲望のままに好き放題にふるまえる場所ではないのだ。絵美も感じているだろうか。妻がすぐそこで手伝っている気がするのを。帰ったら妻がしていたエプロンをさがさなければ。
 もし、妻に相田千佳のような友達がいたら――。ずっとそこで暮らすだろうと思っていた家。隣の住人との戦いは、こっちが一方的にやられていたわけだが、どうなっていただろう? ハブとマングース。あるいはシャチとホホジロザメ。毒をもって毒を制するような死闘を観察するのもおもしろかったにちがいない。誠司はひそかにほくそ笑み、こんな日に馬鹿な考えはよそうと思った。
 絵美が花瓶を置いて、大輪のダリアをペンダントライトにかざした。一本ずつ切り戻しながら、またの来客に笑顔になった。「こんにちは。もう少ししたらはじめるからみんなにもそう伝えておいて」
 ひと固まりのバルーンを高い位置にひっかけなければいけなかった。誠司は傍にいる女性と協力して、椅子に上がるからそれを渡してくれと頼んだ。「脚立があるか聞いてきましょうか。危ないですよ」それより誠司は、風のように若い男が入ってきて、ぱっと自分の手から仕事をかっさらっていくほうが心配だった。
 ほかにも、薄い緑のくねくねした木の枝が、天井のいたるところからぶら下がっていた。
 そうこうするうちに、もう人が集まりだした。近所の挨拶に出向いていた絵美が、外階段を下りて戻ってきた。
 コワーキングスペースで変わった仕事をしている個人事業主や趣味家たち。彼らは気を使って、まだ残っている人数をつたえ、状況を聞くなり何人かが慌ただしく買い物にいった。ロボット、模型、アートに近いアクセサリー。若いカップルも会費を払ったが、今回がはじめての来店であり、アルコールよりまともな食事につられた、いわばゲストのゲストだった。その二人が勝ちとった漫画の新人賞がどんなにすごいか、彼らは絵美の前で、我先にと話した。
「好きなだけ食べていってね」二人は、軽いノリで将来に期待をかけられて、恐縮しどおしだった。
 井坂が出張バーテンダーをしていたころのケータリング仲間も、気軽につまめる食べ物を用意してかけつけた。彼はカウンターに入った時点ですべてを把握し、絵美のサポートをしつつ、仕事の話で盛り上がった。あいにく井坂が車でべつの仲間を迎えにいっていて、ついでにメッセージを入れたケーキをうけとってくるはずだが、それはまだ秘密だった。従業員には予定通り休暇をとらせていた。
 地方都市の、夜の街の風景を得意とする映像作家が入ってくると、絵美が素早く時間の確認をした。午後に写真撮影を依頼しているからだった。
 また一人、今度は絵美の友達だった。花自体はさまざまな取り合わせの、ピンク一色のブーケを胸に抱いていて、さすがに注目しないわけにはいかなかった。絵美はカウンターの中に案内し、今日の料理を見せるはずだったようだが、目に涙をためて感極まっていた。
 会社員らしい服装をしているところから見て、以前の仕事仲間だろう。物珍しそうにきょろきょろしながら、こっそり抜け出した誠司を追って、白い壁の控え室に入ってきた。
「絵美にこんな才能があるなんて知らなかった。なんかすごいことになってますね」
「言っても聞かないから。まったく意地っ張りなんだよ」
 誠司は長机の下をのぞくと笑った。もうほんとにこんなものまで買いにいかされて……。ポンポン付きのコーンハットと徳用のクラッカーをあちこち探しまわった挙句に、ようやく壊れたロッカーの中からひっぱり出した。
「あの、長い間会ってなかったものだから」
 彼女は何も知らないというのに、感情的に不安定になっていることに気づいたようだ。絵美が前の晩にドラマで涙したって心配してくれるにちがいない。しかし、よく見ている。ほんとに謎めいていて、男親にはまったく太刀打ちできない部分だ。たしかにホルモンのバランスとか産後うつとかがあるかもしれないが、いまの絵美にとってそれが何だろう?
「ここまでやりとげたから。もう最後までやらせるしかない。わるいが今日だけ傍にいてやってくれないか」
 もう一人が絵美から離れて挨拶しにきた。絵美は前の職場でも人に恵まれていたのだ。「今日はきてくれてありがとう」帰りは車で送るよと申し出たが、二人とも電車だったので、誠司は悔しそうに指を鳴らした。誠司は二人を、町の花屋のフラワーアレンジメントが彩っているテーブルに案内した。
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