第34話

文字数 969文字

 当日は、絵美が保育園にいきたくないとこぼすのを聞きながら、絵美のマンションの狭い入り口で待っていた。絵美が一人で申し込んできてくれと言い、どうしてそれじゃだめなのかと駄々をこねるので、誠司は「普段着でいい。普段着で」と励ました。
「お父さんが申し込んできてくれたらいいじゃない。なんでそれじゃだめなの」
「最初の面談に親がいかなくてどうする。ただの顔合わせだ。自意識過剰もいい加減にしろ」
 誠司の車で、誠司がハンドルを握った。チャイルドシートのかえでに笑顔を向けた。「忘れ物はないか」誠司はゆるやかにアクセルを踏みこんだ。
 絵美が井坂の浮気についてとやかく言いはじめると、ついに誠司は言った。
「まだそんなことを言ってるのか。一一〇番されてたら即刻営業停止されて店もろともすべてを失ってたんだぞ!」
 その瞬間、誠司はいつものように言い返さない絵美に戸惑った。
「あとから一一〇番しようとした人もいたんだって。あたしが飲みすぎたんだね。みんなでお祝いしようって言ってくれるけど、そんなのぜったいにされたくない。それよりほんとに飲みにきてくれるのかな」
「くるにきまってる」
「お父さんにはそう見えるかもしれないけど」
 誠司はさっと手を開き、それ以上言わせなかった。「あの馬鹿どもに謝る機会をつくってやれ。それがどんなに自分かってにうつったとしてもだ。絵美は今できることをひとつずつしていけばいい」
 その日にバーにいたほうがいいかと聞けば、かならず嫌がるだろう。だからといって、あえて欠席するのもおかしいし、そんなことを求められてもいない。――さあ、なにか言え。誠司は自分を駆り立てた。
「何かあったんだろ? 家で? 井坂くんとか?」
 しかし、そんなんじゃないと言ったきり、絵美はしゃべらなかった。いくつになっても不思議に思う。どうしてただ話を聞くだけのことができないのだろう? どうしてただ話を聞くだけじゃ足りないのだろう?
 保育園につくと、確認の範囲内で、男親の仕事について質問をうけ、絵美がきちんと答えた。誠司が〝おじいちゃま〟と呼ばれたというのに、絵美は生真面目な態度で夜間保育への切り替えについて尋ねた。そのため、ローンの契約並みに口うるさい説明を聞かされたが、子供を置いて逃げるようなまねさえしなければ、たいていの場合は可能だということった。
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