第52話

文字数 1,417文字

「たいして遊べないものなんだな」
「やめてください。そんなことが関係あるんですか」
 井坂は、この突然降って湧いた状況から逃れようと、鋭く視線を走らせた。これるものならきてみろ。そいつを身代わりにいたぶってやる。誠司は今のいら立ちを全身に漲らせた。
「お父さんは何人ですか」
「私は妻だけだ」
 誠司は嘘とも本当ともにおわせずに、きっぱりと言った。誠司は最後に苦い顔の井坂を見て、外へ出た。見たといっても、目をつむっていては動けないから、その姿が目端をよぎっただけのことだった。誠司が階段に足をかけると、さっきまでいた席に人がいるのが見えた。好きなだけ盛り上がるといい。ここは飲み屋だ。そもそも羽目を外したいやつらが集まるいかがわしい場所だ。
「いっしょに帰りませんか」
 ふり返ると、バーにいた客だった。定年して間もない夫婦は、すぐに何か見抜いたらしく、誠司がすこし歩きたいだけだと言うと、ここぞとばかりに沈黙した。
 逃げるような足取りで、一歩ずつ落ち着いて踏みしめながら、さっき見た画像の方角へとすすんだ。
「ちょうどこのあたりだね。この町に住んでたらあの娘も気まずいだろうな」
「そんなんじゃないわよ」
 妙な距離だなとうしろを見ると、井坂がきていた。井坂が別れの挨拶をして夫婦を帰らせている間に、また誠司は歩き出した。日中は若い世代の往来も多く、座席が高かったり低かったりする自家用車も、よくわが物顔で入ってきた。古い道幅の通りが一本だけ斜めにつながっている半円形の駅前広場だった。小さなビルから駅までがいやに近い。誠司ならいざしらず、井坂の目をもってすれば、駅ホームの階段口や、自転車置き場まで、隠れるところなどないだろう。塵ひとつついていない黒のシャツと、はち切れそうな黒のパンツのポケットに、袖まくりした腕を突っ込み、誠司の二三メートル前方であたりを見渡している。何をしても様になる男だ。自分の見せ方も憎らしくなるほど知っている。
「こんなところにいるわけないじゃないか」
「あの写真を撮ったのがちょうど今の時間だったんです」
「だからまたくるのか? 猿や猪じゃあるまいし」
 肩をぶつけて駅まで突っ切ってやろうかと思ったが、考え直し、隣の通りに向かった。
「向こうがバーに入りたがっているんなら歓迎してやれ」
「そんなやつじゃありませんよ」
 絵美の心を支えたのは誰だ? 絵美とかえでを路頭に迷わせなかったのは? すくなくとも最初はあの女のおかげなのだ。
 いつかバーで会った不動産会社はここだろうかと見ていると、真っ黒の影が街灯の光に入ってきた。
「夜風にあたるくらい好きにさせてくれ。それともなにか、話があるのか?」
 ――なんとか言ってみろ。そんなに押し黙っていたら、ほんとに図体ばかりがでかくて、女を追いかけまわすしか能のない男みたいじゃないか! そんなやつが弱気になって言い訳するのか? いまごろ?
「おれが頼りないばっかりに」
 誠司は即座に言った。「私は君に巻きこまれたおぼえはないよ。絵美のためにしてるんだ」
 それでも誠司は井坂を好きにさせておいた。妻との思い出の散歩。山歩きをたくさんしたから足腰はしっかりしている。妻が新鮮で栄養のあるものをたくさん食べさせてくれたし、今は絵美が食事に気遣ってくれている。なんなら家族のいない寒々とした部屋に置き去りにしてやろうか。天涯孤独の身だろうと、どこへなりとも、私の力でこの男を追いやってしまえるのだ。
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