第57話

文字数 1,410文字

 絵美と別れて数時間後、今日はこないでいいと言われていたが、誠司は遅刻の危機と戦いながら、バーへ向かって車を飛ばした。どうやって娘婿とはなしをすればいいかわからない。受け入れようと努力すればするほど、より厄介な方向へ流れ込んでいくようだ。井坂とあんな言い争いをして以来ぼうっとして、頭がまともにはたらかない。すべて絵美次第なのに、自分は同居すらしていないのに、関係が築けないのはなぜだろう。誠司は苛立たしげにブレーキペダルを踏みこんだ。ひょっとして、ずっとこんな関係がつづくのだろうか? 娘たちが決着をつけないまま?
 車は思いのほか早く、いつものパーキングに着いていた。
「お父さん、どこにいってたんですか」
 井坂がデッキブラシを立てかけ、あたかも誠司の体を気遣うように近づいてきた。誠司はアドレナリンがかけめぐるのを感じながら、反射的に気持ちを立て直した。
「当日のことでちょっと――」
「かえでを迎えにいくんだ。時間がない」
 誠司はそれしか言わずに、ホースの水を素早くまたいでバーに入った。井坂は相田千佳の一件からパーティーの準備に頭を切り替えるだけで、おのずと疲労を解消できるらしい。どうやって心の安らぎを得ているのかなど愚問でしかない。井坂の中でどんな情念が渦巻いているにしろ、驚嘆すべき資質を備えている。
 しばらくすると、男が窓の外で井坂と話しながら、明らかに誠司に向けてと思われる視線をちらちらと送った。最近井坂といるところをよく見かける、その男がドアを薄く開けた。「あのーすいません。ちょっといいですか」
「しらん!」誠司は新聞を広げた。
「あれは須藤さんのご主人」見かねた絵美がカウンターの中から誠司に知らせた。「今日は須藤さんが二回もきたよ。お父さんになにか頼みごとがあるんでしょ。早くいってあげて」
 須藤の夫は早々に帰ったらしい。外で床を磨いている井坂とまた目が合った。
――どこにいってたの、と尋ねる絵美に、夜遠し眠れなくて、家で昼寝していたとは言えなかった。
 ほんとに人を明るい笑顔にするのが向いてないな。誠司は今回のことでそれを痛感した。
 井坂が不動産店舗のつい立てで囲われたスペースに誠司を残し、奥へと消えた。そこではっきりと耳にした。「(あの親)また今晩もくるんじゃない? (よく我慢できるね(笑))」とさっきの男の声がしたのだ。それからすぐに、須藤の夫が出てきて「げっ」という顔をしたし、誠司も聞こえたことを隠さなかった。それどころか、にこりともせずに、いったいどんな相談があるのかと自ら切り出した。
 絵美のために手配したケーキを、須藤家に一時置きすることと、それをバーへ運ぶ手筈と、タイミングについての打ち合わせだった。井坂は人を迎えにいくので、もしかすると間に合わないかもしれず、誠司がバーから指示を出す、あるいは、須藤夫妻に急用ができた場合に、誠司がとりにいくかもしれなかった。五歳と四歳の子供がいるからだった。
 そこでも〝それがどうした?〟という反応をして、極北の荒野で立ち尽くしているみたいに、若い二人を冷え込ませた。
 親しさや共感などどこ吹く風だ。自分だって孫のことで頭がいっぱいなのに、今ここでの楽しさがまるで眼中にない。その唯一の例外が、「私が暇をもてあましてて一番確実な人間なんだな」と歯に衣を着せずに言ったことだった。
「べつにひがまなくても」須藤の夫がたじたじになって笑った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み