第48話

文字数 1,294文字

 井坂がこちらをじっと見て、「どうして引っ越したんですか」と質問したとき、誠司は自分でも気づかずに左手を撫でさすっていた。そんなことをしたのははじめてだった。
「絵美からすこし聞きました。いろいろあったんですね。お母さんの人柄なら誰とでもやっていけそうな気がします。わからないものですね」
「いろんな人間がいるからな」誠司は憎しみをこめて言ったが、そのころの感情は、もうほとんどぶり返してこなかった。「妻はよく貧困家庭や里親制度の支援に参加してた。ところが、となりの家に住んでるいるのが、まさにそういう人たちを虐げるヘビみたいなやつだったんだ。そいつは顔が広くてね。よくそんなにと呆れるほど、あることないこと口から出まかせに言いふらしてたよ。ほんとに何十年間も。妻はよく耐えてた」
 そんな家庭から遠方に出た一人息子が、孤立無援の中で立派に働き、家庭を築いていたから、たえず親のことで苦しんでいるだろうと長い間心配していた。ところが現実には、こちらが隣の住人を見るような目つきをして、妻を冷たくあしらい、自らの生家に入っていった。妻が引っ越しを考えるようになったのはそれからだった。
「私も一度だけ見かけたが、奥さんと子供はごくふつうのかんじだったな。さすがに楽しくはなさそうだったが。ぜんぜん姿を見ないぶん、こっちはそりゃあ苦労しているだろうと気にかけるんだよ。そんなことでと思うかもしれないが、妻は相当なショックをうけてた」
「お母さんは前の家で暮らしたかったんじゃありませんか」
「そういう気持ちもあった。妻より私のほうがあったかもしれないな。だが、ちがった人生も見てみたいじゃないか。気持ちを一新するのはいいものだよ」そこまで言うと、誠司の表情は急に暗い影を帯びた。「引っ越した直後に病気をしたのは間が悪かっただけだ」
 慰めの言葉が見つからないのだろう。「そうだったんですね」と井坂が言った。
「まだあの女のマンションを見にいってるらしいじゃないか」
 最初は自分がしでかした浮気だった。今は、何のために生きているのかや、自分がどうなりたいのかもわからない人物の、たった一本の馬鹿げた電話だった。誠司は車を隠しての居留守ではないと考えていた。しかし、相手が自宅から閉め出されているのは、井坂がねばりづよく監視をつづけているためだ。
「向こうだって気づいてるだろう。それでも話ができると思うか」
「するつもりです」
「きみは浮気をしたことで絵美にたいして罪を犯したわけだが、あの女につけこまれるいわれはない。ほかの誰からもつけこまれるいわれはない」
「あいつの異常さをここで説明できたらいいんですが」
「きみの言葉だけは聞かないだろうな」誠司はそう言って、すっと息を吸い込んだが、思い直したようにつづけた。「そんなものまで背負って何になる? よく考えてみてくれ」自分がしたことの責任をとらせようとしている相手に、どうやって言い聞かせるのか? どうやって打ち勝つのか? 誠司には全く分からなかった。
「おれがはりきってるように見えるんでしょうね」
「どこまでいっても人だよ。非を認めない人間に深入りするんじゃない」
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