第7話

文字数 1,588文字

「晩ご飯どうする」と絵美が呼んでいた。誠司はどのくらいそうしていたのか考えたくもなかった。
「あたし今からご飯つくる気ないよ」
「外へいこう」
 金曜日の夜はどこへいっても混んでいた。車を停めることすらできずに、個人経営の洋食店へ向かったが、そこも満席だった。ありきたりな焼肉チェーンで順番待ちをし、どうにかこうにかテーブルにすべりこんだ。今からだと六十分前後の待ち時間とされていて、「これでもいいほうだったんだな」と誠司は観念したようにメニューを開いた。
「もう遅いし、あたしも今日はやめておこうかな」
 注文をつたえた絵美が、最後にもう一度だけ問いかけた。誠司は運転をかわると言われても、きっぱりとアルコールを断った。そもそも誠司には晩酌の習慣がなかったのだが、近頃はコップ一杯のビールですら、口をつけずに押し返すほどだった。老いてもなお堅物でいる自分が嫌になる。
「やっぱり体が悪いんじゃない?」――目の前で絵美がジョッキを傾けたが、誠司は飲みたくならなかった。
 誠司は思った。一人になってめっきり体力が落ちてしまった。一緒に死ねばよかったのだ。これからさき、夫婦でともに死ぬ選択ができる日がくるのかもしれないが、自分にはなかった。これ以上体力が落ちたらどうなるのだろう。いわゆる寝たきりというのは、どこまで自分を保っていられるのだろう。夢は見るのか。見るとしても、それは自分自身と呼べるものなのか。引っ越しで減らしたとはいえ、妻に先立たれ、また処分すべきものが山ほどできた。しなければいけないのをわかっていながら、手をつけずにいることが、自宅にかぎらず方々にあった。いまや命の価値は地に落ちてしまった。本当に欲しいのは活力だ。
 それでも、誠司は飲みたくならなかった。
「ほら、おねがいだから泣かないでよ。プリンがあるよ。プリンもだめ?」
「いいじゃないか。子供はみんな泣いて育つものだ。誰が見てるっていうんだ」
「――聞こえるじゃない! やめてよ」
 誠司はこれ見よがしだった。娘が自分を無視していることを知りつつ、食事に集中した。機嫌がいいとどこへつれていっても大人気だが、今夜はとことんまでかわいくないほうのかえでだった。
「父さんが払うから金はもっておけ。ちゃんとあるのか」
「あるよ」
 誠司はひとつ気になっていた。「おねがいだからもうちょっとだけ我慢してよ。お父さんは仕事で遠くにいってるっていったでしょ」絵美がそう言って子供をあやしていたのだ。別れるつもりなら、ふつうは死んだと教えるところじゃないだろうか? よりをもどす気持ちがあるのだろうか?
 いつの間にか、車のハンドルに置いた手にじっとりと汗がにじんだ。
 絵美がまた同じことを尋ねるので、「わかってる。電話があればうちにはきてないって答えればいいんだろ」と誠司は遮った。「だからっていつまでも隠れていられないじゃないか。離婚届だってまだなんだろ。どうなんだ。もう書いたのか」誠司は絵美が首をふるのを見た。だが、何について首を振ったのかまでは定かでなかった。「これからどうするつもりか知らんが、子供のことも考えてそろそろ決断しないとな。手遅れにならないうちに」
「いま隠れてるって言ったよね。なんであたしが隠れなきゃいけないわけ」
 誠司はあわてて話をそらした。
「井坂くんは一人で客の相手をしてるのか」
「そうだよ。あのバーだけが支えだからね。借金だってつくってるし」
 それから突然だった。「あいつの話はしたくない」と一方的に絵美が言い、夜の輝きがすっかり鳴りを潜めた。
 樹木の繊細な枝振りが列をなしていた。光で満たされたエントランスを望みながら左折した。誰とも会わなかったし、パーキング側のエレベーターは自宅まで一度もとまらなかった。
「もうちゃんと言葉がわかるよ。こっちがしゃべってることくらいはね」
「そうだろうな」と誠司は言った。
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