第51話

文字数 1,007文字

 若い女が肘ですべるように近づいてきた。ピンクのスマートフォン。さっきの画像。誠司は完全にからかわれていた。「もういい。もうわかったから。そんなもの見せないでくれ」誠司は精一杯の威厳を示してカウンターに逃れた。
 冷蔵庫のところで立ち上がった井坂が、素早く誠司を見た。井坂が一歩を踏み出した瞬間、誠司はなぜか背筋がぞくりとした。
「絵美が慎重に人をえらんで聞いているのに、きみが騒ぎを大きくして、いったい何がしたいんだ。なぜ広めた」
 井坂は、従業員の動きと、広い店内のすべてのオーダーに注意を払いつつ、グラスを磨いた。
「なにか言ったらどうだ」
「これ以上迷惑はかけません。お父さんは楽にしててください」
「なぜそれが言える?」と誠司は食ってかかった。「ふうん。よく知ってるんだな。こっちは何がそう言わせるのかさっぱりわからんが」
 井坂がおもむろに「そっちにはいってませんよね」と尋ねた。そんなことがあるわけもないので、今度は誠司が沈黙する番だった。
「こんなに落ち着いているとは意外だ。修羅場にも慣れたか。それともあれか、昔馴染みをかばっているのか」
「どうして? 人の幸せを壊そうとしてるんですよ」
 どっちがだ――。たしかにいい勝負だ。誠司はうずくような恐怖を味わいながらも、内心で茶化した。今の自分を幸せと感じているのか? いったいどんな人生を送ってきたんだ? そんな人生観はまったく想像外だった。絵美の心が離れているのに、一緒に暮らしはじめて気づかないのか? 自信家なのか? 女でひどい目にあったというのが本当なら、この男もまた、そのころから時間が凍りついているのだろうか?
「きみはあの女と別れてから何人の女性と交際してきたんだ?」
「おかしなこと聞かないでください」
 井坂の眉間に深いしわが刻み込まれたのもつかの間、ぐらりと体を揺らして次のグラスを磨きはじめた。そして、あのきざったらしく柱によりかかってでもいるような“フッ”とする笑い。誠司はありったけの威厳をこめて見ていた。
「正直に答えてくれ。絵美と会うまでどうだった」
「二人? いや、四五人……」
 誠司はその答えの中身を吟味した。二人と言ってから数を増やしたのは、今回の浮気相手をかぞえてなかったからか? 過去に一人だけだとかっこがつかないか、少なすぎると判断して、適当な数に直したのか? あるいはこうも考えられる。五人は見栄か、こっちのイメージにすりよせたかだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み