第64話

文字数 2,881文字

 雨脚が弱まった。かえでを負ぶって晩ご飯の買い物にいけそうだった。「いいの? やっぱり自分で持つよ」誠司は有無を言わさず絵美から荷物をとり上げると、足を滑らせないように階段を上がった。
 そのとき、誠司は傘を傾けて空を見上げた。誠司はうしろ向いて、絵美に腕を回しながら、完全に足を止めた。「――どうしたの?」
 絵美が息をのんだ。相田千佳だった。
「なにしにきたの? それとも偶然通りかかった?」
「からかわないでよ。あたしがくるのはわかってたでしょう。――え。どうしてわからないの?」
 相田千佳が近づくと、誠司はスマートフォンを出してこっちへくるなと警告した。ビッグサイズの長袖シャツが雨に濡れはじめている。片方の手を腰のポケットかベルトにかけているのは何のまねだろう? とくに恐怖は感じないが、動きやすそうな黒いゴム底靴は警戒した。
「あたしはその子の靴を返しにきただけだから」相田千佳がしらじらしく片手を上げた。「これじゃ渡せないよ」
 しばらくすると、相田千佳がゆっくりとした動きで下手投げをした。白いレジ袋がびしゃりと地面に落ちた。「おじいちゃん! ちゃんとうけとってよ!」
 絵美がかえでの小さな頭を胸に抱きよせ、「いつからここにいたの」と言った。
「いつでもいたよ。ぜんぜん気づかないんだから。あたしだけだよね。あたしは絵美がされたことぜんぶ見たよ」
「そうだね。それでもう十分楽しんだでしょ」
「冗談でしょ。あたしが楽しかったことなんか一度もない。あたしがいつから絵美のことを知ってるか思い出して」相田千佳が真剣なまなざしで絵美に問いかけた。「あたしはあいつと会ってからさんざんな目にあってきたの。あの男と出会ってから」
「いいがかりだ。井坂くんは君のせいでひどい目にあったと言ってる」
「老いぼれは黙ってて。聞こえないの!」
 以前の人を食ったような余裕は消えてなくなっている。なぜこんな愚行をはじめる気になったのだろう? 判断力を失ってすっかり焦燥している。もはや自分自身が手に負えなくなっているにちがいない。片時も気が休まらないのだ。いったい何をしにきたのか? 誠司は、それをいま見つけ出そうとするかのような、おぞましい精神を感じた。誠司が制止を無視してまえに出ると、まんまと相田千佳がかみついた。凶器を用意してきたなら使えばいい。警察に通報して、子供たちをさきに家に帰せる。ふたたびかえでを標的にさせてなるものかという強い怒りに突き動かされ、そこからさらに足を繰り出した。と、突然、断固とした力でシャツの襟が首に巻きついた。絵美がひっぱっていた。
「こらっ、やめないか」
「危険なまねしないで」
 相田千佳が神経質な笑みを浮かべながら、左右と、うしろに目をやった。
「これ以上自分を傷つけてどうするの。あんなに悔しがってたのに。殺してやろうとまでして、よく戻る気になれたね」
「あたしがつらいときにそばにいてくれたことは感謝してる。でも、もう帰って。これはあなたの問題じゃないのよ」
「背に腹はかえられないって?」
「そんな言い方しないで。最初から本当のことは何も話してくれなかったじゃない。追い出したのだってそっちだよ」
「いいよ。絵美の言うとおりにしてあげる」
 絵美は静かに息を吸って、首を振った。「たぶんあなたは一人でしかいられないのよ。それをごまかすために、昔の男をさがして家族に近づくことまでしたんじゃない。何かおかしいのはわかってた。いつも不安定なあなたが心配だったから。あなたがやさしいうちは判断しきれなかったのよ」
「なにそれ! まるで絵美があたしを支えてたみたいじゃない!」相田千佳が客寄せのパフォーマンスのようにげらげら笑った。「あたしがあいつに浮気の手引きをしたわけ? 二人でぶっ潰したあのキャバクラの女、あたしのこと知らなかったじゃない。それをどうやって説明するか教えてよ」
「そうね。あたしからは何も言えない」
「それでも戻るんだよ。体売ってるのと同じだよ」
 誠司は憎悪の炎で焼き尽くさんばかりに言った。「結婚はそんなものじゃない。知ったような口をきくな」
 事実、観衆が集まろうと、井坂があらわれようと、この女はいけしゃあしゃあと切り抜けるにちがいなかった。親の金のことが喉元まで出かかっているのを、誠司は歯を食いしばって堪えた。相田千佳の顔がぴくっとふるえた。アイスキューブに亀裂が入ったくらいの見逃しそうな変化だったが、次のときには手で耳をふさいでいた。
「その子、ほんとうるさいよね!」
 その瞬間、降りしきる雨の音が消えた。かえでは泣いていなかった。泣いている子供などどこにもいなかった。
「だらしない男とくっついた娘をほうっておいていいんですか」相田千佳はそれ見たことかとにやりとした。「そうだね。娘の人生なんか関心ないよね。男っていくつになっても下の世話をおしつける女がいさえすればいいんだもんね。バーでこき使われて、家でも仕事して、そりゃあ親の世話だってするよね。これで安心だ」相田千佳はそう言うと、ふたたび絵美に、凄みのある視線を定めた。「みんな知ってるよ。笑ってるやつらみんな。子供が一番かわいそう」
「かわいそうか――。馬鹿げた正論だな」
「絵美、あたしにはなんだってできるんだよ」
 誠司はかっとなって言い返した。
「井坂くんならそこにいる。話がしたければしなさい。ここで見てたのなら客がいないのも知ってるだろう。いつからいた? 一時間か? 二時間か?」
「お父さん――」絵美は傘をつかんでいるほうの手で誠司を押した。絵美はしっかりと相田千佳を見て、かえでを抱きなおした。「あたしはもう大丈夫だから。靴を届けてくれてありがとう」
 誠司はちらっとうしろを見て、絵美とともに歩き出した。
「見せて。この靴いくらさがしても出てこなかったのに」絵美が穏やかな声音で言った。「あの人、ほかにも昔の男を追跡して面白がってた。あたしだって一度は本気で愛が冷めたよ。今は人のつながりで無理やりつづけてるのかな。ほら、あたしって子供のころから人見知りしたでしょ。流されてばかり。それをいいようにのせられて、あいつに仕返ししたもんだから、ますますわけがわからなくなってた。あんなに酔っぱらって爆発したのって、自分がいやって言えない負い目もあるんだよね」
「仕事を奪われたからだ。絵美は好きな仕事を見つけたんだ」
「仕事か。そうなのかな」絵美が溜め息をついて、下に向けていた視線を遠くへ伸ばした。雨粒がひたひたと降っていた。「自分がこんなになると思わなかった。でも、わらわれることに慣れたのはたしか。そこはやっぱりあの人のおかげなのよ」
 誠司は恐怖心を押し隠して一定の速度で歩きつづけた。絵美がさらに口を開いた。
「言葉でちゃんと伝えるくらいはしないとね。だから今ので終わり。もうなんの貸し借りもないわ」
 そう言うが早いか、絵美がうしろをふり返った。誠司もあとから体を回した。相田千佳はどこにもいなかった。
 絵美がバーに電話する間、誠司はかえでの顔をまっすぐに見ることができなかった。
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