第18話

文字数 1,120文字

 カウンターの向こうのドアから井坂があらわれた。一歩ずつガラスを踏みしめて近づいてくる。そこはガラスの他にも進行を妨げるものが横たわっているようだ。店の評判は? 借入金の返済は? 男としての信用は? 井坂は目の下に隈をつくり、暗闇から抜け出すすべもなく、抵抗することすらやめた顔をしていた。いよいよ本格的にすべてを失いつつある男の顔だった。
 救急隊員が言った。「顔の傷はひっかいたように見えるね」
 いかにもわざとらしい失笑があちこちから漏れた。「派手にやられたもんだよな」「あれは相当飲んでたよ」「いっとくけど俺だって突き飛ばされたんだからな」肥満体の男まで言った。「おまえへんなことしなかっただろうな」
 あとにはもう野次から野次の応酬だった。
 救急隊員は目を見開いてペンライトを当てながらも、バーの内装に引きつけられている。さながら、何十本もの剣を突き立てるトリガーがしかけられてでもいるかのように。一人の客が「自棄酒が度をこして」と口を滑らせたとき、合意を求めてほかの客たちを見回した。
 世代やセンスが異なる十人以上の男女がいた。とくに井坂にかぎらず、答えられる者が答えてかまわないようだった。
 あとから入ってきた救急隊員が、ホルダーに吊るされたグラスの残骸をとってにやついた。
「気分は悪くない? 今日の営業はつづける? まあ無理のない範囲でね」
 赤いアーチのドアが閉まったと見るや、ざわめきがやんだ。客の一人が井坂の後頭部にそっとタオルをあてた。
「よくもったな。これはやっぱり縫わなきゃだめだわ」
 血のついた氷袋もすぐに手渡された。今はそれで出血を抑え、自分の足で病院までいくしかなかった。
「窓ガラスを割ったっていえばいいよ。自宅でね。ここで寝泊りしてるんだから自宅と同じだよ」
 バーの若い出資者だろう。井坂がその男に述べている感謝には、さまざまな感情や性質がつめこまれていたが、脱力した状態は保ちつづけた。誠司にはやや大げさな気がしたが、本当はもっと深刻なのかもしれなかった。「その指はぜったいレントゲンをとって診てもらわないといけないよ」その右手だけは布を巻くことも添え木を当てることもせず、本人の手で包まれていた。井坂を介抱している誰からも放擲されていた。今夜もっとも健闘を称えられているのもその指だった。
 入ってきた客が、おっという顔をして、赤いアーチのドアのところに立っていた。若い男がダーツの矢を拾い、狙いをつけて投げた。そして、ぎくりとして誠司の方を見た。絵美がそれを使って襲いかかるところを、誠司が想像したからだ。絵美がそんな危険なまねをするはずがない。断じて人殺しではない。誠司は怒気をみなぎらせてその男を見ていた。
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