第45話
文字数 1,217文字
午前四頃、絵美と出くわした誠司は、自分が感じている気まずさにうろたえ、すっかり眠気がとんでいた。絵美はベーコンと薄焼き卵のサンドイッチを手際よくつくり、二人分の牛乳を温めると、ひとつを誠司に渡した。その声には、これから言葉にすることへの、心からの謝罪がこめられていた。
「本気でかえでをつれ出す気があるなら、あの朝会ってるときにできたのよ」
「みんな自分の気持ちを隠しながら生きてる。明日にはどうしてるかわからないのに、人のことなんか。そうだろ」
「正直言ってまだよくわからない。なんか自分のことが信じられない」
「それでもいいじゃないか。子供のためにきちんと生活していれば」
「そうだよね。そうなんだよ。でも、そのために何をすればいいの」
絵美は自分のことを馬鹿だと言った。誠司はそれを宥めるように、ほぐすように否定した。
「父さんだって信用してた相手に裏切られたら何をするかわからない」
「お父さんを裏切る人はいないよ」
「そんなことわかるもんか」
「わかるよ」
「いいや。ちがうな。何もかもをかけて破滅させてやろうとするかもしれないし、その場の感情で人を殺めることだってあり得る。追い詰められたら自分の命なんか」
「いいから。そんなこと言わないで」
誠司はワックスペーパーで包んだサンドイッチをおごそかな手つきで皿に置いた。ついに絵美が疲れたように首を振った。
「もうあずみさんとは会わない。それをお父さんのまえで言っておきたかったの。――だけどどうしてこんなタイミングだったんだろ。もっと店が落ち着いてからにしてくれたらよかったのに。どのみちかえでの保育園だってしないといけなかったんだけど」
何度もそこで立ち止まったのだ。絵美だって悪意の底知れない強さを知っている。ただし自分を犠牲にしすぎている。はたしてあの女が絵美を見つけたのは偶然なのか? こんな社会ではそれすら無意味な問いだ。しかもその問いを口に出した瞬間、絵美一人の素行がとりざたされるのだ。
誠司は恥ずべき自分を省みた。妻のために戦うことをしなかった自分に、家を手放した自分に悔しさがこみ上げると、ありったけの愛情をこめて言った。「傍にいて全部知ってるからじゃないか」
絵美は何か言おうとし、横を向いて壁のくぼみに生けているデルフィニウムを見た。誠司はこれ以上傷つけたくなかったから黙っていた。
「ううん、なにもない。やっぱりいい」
絵美は、以前からそこにあったダンボール箱に近づき、しゃがんだ。
「前から気になってるんだけど、――これは何?」
山深い土地にある製材所から、大きな箱が届いていた。積み木にしては大きなブナの木材がたくさん入っていた。それは組み立て式のロッキングホースだった。
「毎晩酔ってるせいかな。買ったことまで憶えてないわけじゃないが、重たくてそこへ置いたままだ」
「お父さんもこういうことするんだね」絵美がひっそりと笑った。「あるよね。自分が自分じゃなくなるときって」
「本気でかえでをつれ出す気があるなら、あの朝会ってるときにできたのよ」
「みんな自分の気持ちを隠しながら生きてる。明日にはどうしてるかわからないのに、人のことなんか。そうだろ」
「正直言ってまだよくわからない。なんか自分のことが信じられない」
「それでもいいじゃないか。子供のためにきちんと生活していれば」
「そうだよね。そうなんだよ。でも、そのために何をすればいいの」
絵美は自分のことを馬鹿だと言った。誠司はそれを宥めるように、ほぐすように否定した。
「父さんだって信用してた相手に裏切られたら何をするかわからない」
「お父さんを裏切る人はいないよ」
「そんなことわかるもんか」
「わかるよ」
「いいや。ちがうな。何もかもをかけて破滅させてやろうとするかもしれないし、その場の感情で人を殺めることだってあり得る。追い詰められたら自分の命なんか」
「いいから。そんなこと言わないで」
誠司はワックスペーパーで包んだサンドイッチをおごそかな手つきで皿に置いた。ついに絵美が疲れたように首を振った。
「もうあずみさんとは会わない。それをお父さんのまえで言っておきたかったの。――だけどどうしてこんなタイミングだったんだろ。もっと店が落ち着いてからにしてくれたらよかったのに。どのみちかえでの保育園だってしないといけなかったんだけど」
何度もそこで立ち止まったのだ。絵美だって悪意の底知れない強さを知っている。ただし自分を犠牲にしすぎている。はたしてあの女が絵美を見つけたのは偶然なのか? こんな社会ではそれすら無意味な問いだ。しかもその問いを口に出した瞬間、絵美一人の素行がとりざたされるのだ。
誠司は恥ずべき自分を省みた。妻のために戦うことをしなかった自分に、家を手放した自分に悔しさがこみ上げると、ありったけの愛情をこめて言った。「傍にいて全部知ってるからじゃないか」
絵美は何か言おうとし、横を向いて壁のくぼみに生けているデルフィニウムを見た。誠司はこれ以上傷つけたくなかったから黙っていた。
「ううん、なにもない。やっぱりいい」
絵美は、以前からそこにあったダンボール箱に近づき、しゃがんだ。
「前から気になってるんだけど、――これは何?」
山深い土地にある製材所から、大きな箱が届いていた。積み木にしては大きなブナの木材がたくさん入っていた。それは組み立て式のロッキングホースだった。
「毎晩酔ってるせいかな。買ったことまで憶えてないわけじゃないが、重たくてそこへ置いたままだ」
「お父さんもこういうことするんだね」絵美がひっそりと笑った。「あるよね。自分が自分じゃなくなるときって」