第66話

文字数 3,105文字

 井坂がもうすこしでつくと電話で知らせてきた。
「いったいいつまでかかるの。戻ってこれないんだったら最初にそう言って。でも、いいよ。こっちは大事なお友達を死ぬほどこきつかってなんとか切り抜けてるから」そのわりに絵美の声は余裕たっぷりだった。さっと油で炒めた野菜を盛りつけてルーをかけ、身を乗り出している四五人の客をわき立たせると、ふたたびスマートフォンにもち替えた。「肉料理が出す先から消えていく。そんなのもうとりかかってるよ」
 それは誠司への合図でもあった。
「お父さんはまだいいでしょ?」
「いらない。それと今から出かける」
「どこへ?」
 そこへちょうど差し入れが届いたのを見て、誠司は笑いを堪えながらジャケットを着た。パン屋が持ち寄ったのも自家製のカスタードプリンだった。絵美がデザートをつくれないのを知っているから、みんなが気を利かせていた。ご飯のまえに甘いものを食べるのも許されていた。何もかも客の自由だった。
 阿江はちゃんと憶えていた。無理強いしたくはないと案じていたのは、こちらの取り越し苦労だった。「こんな格好でいいかしら」足の甲が見えるマジックテープの靴を素足に履いて、七分丈のシャツと無地のスラックスの、軽やかなスタイルで出てきた。誠司はバーまでともに歩きながら少しも不安を感じなかった。誰かが知らせたらしく、絵美が階段の上で待っていた。
 急に阿江の歩みがおぼつかなくなった。どんなに時代が進歩しようと、若い世代が高齢者の身体能力を的確に測れる日はこないだろう。年寄りは調子を合わせるのみだ。そういう心理は、誠司自身にも身に覚えがあるので、感謝の念が胸いっぱいに広がった。
 誠司は面映ゆいような心境で阿江と笑みを交わした。阿江が絵美とともに赤いアーチのドアの前に下り立った。
「なにかあったら気にせずに言ってくださいね」絵美は老婦人と手をつないだまま、ドアを開いて慎重に足を運んだ。
「ええ、ありがとう。大丈夫よ。みんないい人たちばかりだから」
 とくに用があるわけでもないのに、中にいた井坂が「お父さん!」と声を上げた。
 少し予定が遅れていた。先にきている音大生によると、あと十分ほどで全員が揃うそうだ。おいしいものを食べて、好き勝手にしゃべっていると、それくらい待つうちに入らなかった。
 シンプルな普段着の女の子たちが、燕尾服の男子学生をつれて戻ってきたのと入れ違いに、井坂と須藤が出ていく。たわいもない笑い声が聞かれ、最初こそ仮装大会じゃないかと言う物までいたが、化学プラントさながらの複雑な形状の楽器が、一本につながっていく様はとても凛々しく、じょじょに期待が高まった。
 すいません、と女の子が誠司の腕をちょいちょいとひっぱった。
「これはトナカイの赤鼻じゃないか」
 しかし、平凡なしわしわシャツとジーンズでありながら、つけ鼻メガネとサンタ髭の若い男を見ると、誠司も従うよりほかになかった。絵美がカウンターの向こうで笑った。「あたしは食品を扱うからしなくていいのね。それはざんねん」猫耳や口周りだけの犬のメイクやアヒルやうさぎたち。店中が多彩な顔ぶれでにぎわいはじめた。
 場所を譲り合っていた人々が一斉にリラックスした。
 木管楽器の四人は息がぴったりだった。
 燕尾服の男子学生が両手を上げて拍手を制し、慎ましやかな笑いを起こした。そしてケーキカットがあることを告げてきょろきょろすると、観衆の後ろに立っていた井坂が、かわって説明した。突然のカウントダウン。みんなのゼロのかけ声と同時に照明が落ちた。井坂が赤いアーチのドアを開いて、薄暗い室内に須藤夫妻を入れた。花火が輝いている四角い大きなケーキの入場だった。「これは私たちから!」カウンターにいる絵美に向かって客たちが次々に声を上げた。「絵美さんおかえりなさい! よくがんばったね!」「出産おめでとう!」井坂が準備したものだとばかり思っていたから、これには誠司も驚いた。花火が燃えかすとなり、何人もの客が絵美に押し寄せた。ケーキにプリントした移転前の窮屈なカウンターに立つ二人の写真は、絵美が目にすることがないまま、適当なテーブルに避難させるしかなかった。
「なぜ三人の写真にしなかったんだ? かえでがいないじゃないか」誠司はクラッカーの紙テープを落としながら、苦労して井坂のところまでいって囁いた。「私のことを気にしたのか?」
 井坂は聞きとれないみたいに笑った。実際、言葉を交わすのが難しく、夜までずっとつづくのではないかと思えるもらい泣きや、はやし立てるのやらで、バーの中にいてはどこにも身の置き所がなかった。
 阿江が帰ろうとしているのを見て、これぞ救いの手だとばかりに、誠司は一緒に外に出た。
「いやあ、あれはたまらない」
「わたしも何も用意してこなかったのよ。こんなことだったらちゃんと贈り物を準備しておくんだったわ」
「それはもう娘たちがたくさんうけとってる」
「じゃあこれからはもっとサービスしてあげなくちゃ」阿江はそう言うが早いか、手をふって慌てて発言を撤回した。「あまり持ち上げないで。お節介なおばあさんがますますしゃしゃり出ちゃう。みっともないわ」
「そうですか。でも、これからもきてくれないと困るなあ」誠司がおどけて言った。「どう見ても娘たちは見返りを求めてる」
 いまは街路樹が白っぽい葉裏を見せて熱と風に耐えている。葉が黄色くなって落ちるまでもうすぐだ。それをありのままに、二カ月先ととらえることも、ほんの数日先とすることも、なんら違わないように感じる。いつから学校がはじまったのかも知らない。これでも日差しが和らいだのだろうか。すくなくとも、昼下がりの午後だというのに、人通りが戻っていた。
「やっぱりあそこで一日を過ごすのは無理だな」
「二人はまだ働いているわ」
 誠司と阿江はわけもなくくすくす笑った。
「二人ががんばってるのを見て、かってに元気をもらってるだけなんですよ。あそこに通ってる人みんなそうじゃないかしら」
「子供のままにしておきたいのか、娘が無理をしてるように思えてしかたない」
「無理してることはたしかね。でも、楽しんでやってる」
 誠司はためらいがちに尋ねた。二人が迷惑をかけているのではないかと心配したのだが、阿江はそれこそ子供扱いだとあしらった。阿江が今度の醜聞を念頭に置いて話しているのはまちがいない。
「幸せであることのほうが大事よ」
 そこにある深い悲しみ。その感情は、最近まで誠司自身のものでもあったのだ。
阿江が「奥様を亡くされたんですって?」と尋ねたとき、誠司の心は意外にも晴れやかだった。
「妻のことが片時も頭から離れない。本当に大変だったんですよ。自分も死んでしまいたかった。そのときは大げさでもなく自分まで死んだ気がしたんだが。あんなにつらかったのに。それでも変わっていくものらしい」
「わたしもどうして生きているのかよく考える」
 ――ほんとに、人の変わり身の早さには対処しようがない! 自らに憎しみを向ける? あるいは素直にいまを楽しむ? そんなことではない。忘れてしまうのをとめる手立てが知りたいのだ。それがどんなに不可能であるかを知りたいのだ、と誠司は思った。
 阿江の家が近づいてきた。
「うちでは出かけろ出かけろってうるさいのよ。でも、今日はいってよかったわ」
「いつもバーが混んでくると落ち着かなくて困る。自宅まで帰るのも面倒だし、この前もそのへんの喫茶店に逃げ込んでみたんだが、どうもしっくりこない。やはり若い人が多いせいかな」
「そこはおたがいに慣れるものよ。通ってるうちにお店のほうで合わせてくれるわ」
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