第8話

文字数 699文字

 ある日、絵美がこちらを見ていた。「なんだ?」寝室の向かいにある部屋のことだった。
「お父さんにはいらないものがあるじゃない。あとからお母さんの服が出てきても困るでしょ」
 かえでを寝かしつけたのだろう。数分後、絵美が痺れを切らして言った。「ぼさっとしてないで一つでも開けてみてよ。あたしが手伝ってあげるからさ」
 ものは試しと、その部屋の空気を嗅いでみた。絵美がエアコンをつけていたから弱まっているかと思いきや、そうでもなかった。段ボール箱によせて積み上げている衣装ケース。あの中に懐かしい家のにおいが――。誠司はそれをなんとも思わない一方で、この部屋に入ると糸が切れたように動けなくなるのだった。
 今風のローチェスに買ったままのベビー服が仕舞いこんである。実際に体にあててサイズを見るまでは考えられるのだが、すでに合わないにちがいなく、そのことでもったいないとか、人にあげるだの売るだのと考えると、もうまったく話をする気にはなれないのだ。
 誠司がいっこうに進める気配がないのを見てとると、絵美がげっそりしたように溜め息をついた。
「ここにベッドを運べばお父さんがゆっくり眠れると思ったの。じゃああたしの隣で寝なさいよ」
「いびきで泣かれたくないからな」
「そんなにソファが気に入った?」
 誠司は屈んで段ボール箱の一つを開けた。飾っていた大皿と食器類だった。包み紙をはがすまでもなかった。住む家をなくしている絵美がこれを欲しがるだろうか? 結局捨てるものばかりだ。この部屋のなにもかもが。引っ越しのときに最小限に選んで決めたもののすべてが。あるいは、どれを見ても、捨てるという判断しかできなくなっているのだ。
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