第19話

文字数 1,137文字

 場所を変えなければいけなかった。井坂を真っ白のペンキで塗られているスタッフルームにつれていき、ドアは開けておいた。店内の趣向を凝らした内装にくらべて、壁と一体になっているコンクリート階段がずいぶん古めかしい。ビルそのものは箱でしかなく、人の活動のあるなしによらず、えてして荒廃の一途をたどるものだ。それだけに、ここに満ちているエネルギーと機運を、認めないわけにはいかなかった。
「あの、お怪我はありません?」
 誠司は淡々と応じた。わずかに腰をかがめた女性から機嫌をなだめられるような覚えはなかった。こんな状況下に駆けつけたことへの感謝とお詫びを、どういうわけかその女性が述べた。誠司がとりつく島もないため、触りの部分しか言えなかったが。そのやりとりは、そこに出入りしている全員に染み渡っていった。
「よし。もう出ていって大丈夫だろう」
 井坂より年上の男が、そう言って外を見にいかせ、血のついたタオルを井坂の首にかけて戯れた。「こてんぱんにやられたな。でも、自分でしたことだからな!」そのタオルを長机に放ったとき、もう一度傷口を見て、片側の目に力を溜めて顎をひくというようなゆがみが添えられた。深刻さを軽減しようとしてか、あるいは、ただ笑っているのだった。誠司からするとはるかに若かった。そのため、舞台上の老木のような微妙な立場におかれていながらも、状況を整理することはできた。とくにひどいのは二箇所だ。ほかも数え出したらきりがない。事実、その男が一部始終を見ていたのだろうし、ここでそれを事細かに問いただして、誠司まで知る必要はないのだった。
 黒のTシャツの上に開襟した白のシャツを重ね、腕まくりするのが、前のバーからつづく井坂のアイコンだった。冬にこんなかんじの同じような服装で、デパートの惣菜を手当たりしだいに買って、誠司の自宅を訪ねたこともあった。銀のピアスや指輪。すでに年齢的に無理がある十代が好みそうな格好。ペンダントは矢尻のかたちだった。
「お父さん、せっかくきてもらったのにすみません」井坂はロッカーを閉めると、今日はじめて誠司に口を利いた。
 顔と手をすっかりきれいにしていた。相変わらず黒のシャツを着て、手には何も持たなかった。健康的に日焼けしたがたいの大きな男が、鼠ほど小さくなっていた。その目がどうしてここにいるのかと問いかけていた。井坂は何も知らなかった。誠司は、いいから早くいきなさいと送り出した。その答えは、数日中に、あるいは今夜にも、自ずと導き出されるにちがいなかった。
 つき添いの若いカップルは、誠司がありがとうを言うと会釈だけして、たがいに小さな声で計画を練った。井坂の健康保険証をとりに帰り、病院へ送り届けてから、二人の時間が再開するのだった。
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