第49話

文字数 914文字

 三時四十分に、誠司と絵美は引き上げ、保育園へ向かった。
「どうしてあんなことしたのかって怒られた。あれ以来会ってなかったから」
「おまえたちがまた二人でやっていこうとしてるんだ。みんな応援したいだろう。それをあんな馬鹿なまねをしたら離れていかないほうがおかしい」
「わかってるけど。――おぼえてる? お父さんがあの夜にかえでをあずけた人。入り口のところで」
 あのときの女があずみとは知り合いでもなんでもないとわかると「なにを偉そうに!」と誠司は息巻いた。そんなやつがさらにあずみへとバトンタッチしたのか?
「だからお父さんに謝ってた。悪いことしたって」
「悪いなんてものじゃない。そいつも同罪だ。よくも自分だけ善人面ができたものだ」
絵美が着圧ソックスを脱いでへなへなとソファに座り込んだ。
「たった二時間で足がぱんぱんだよ」
 マイバッグの中には、豚肉と野菜とたくさんの薬味、それにおいしいトマトが入っていた。夕食を共にしようと、誠司のマンションにきていた。
「まだソファで寝てるの? ここじゃ疲れがとれないでしょ」
「食べて寝るだけなのに疲れるも何もないじゃないか」
 誠司は笑った。人から嫌がられるうしろ向きな発言も、娘が相手なら楽しいおしゃべりだった。それで無精をしてマグカップで水を飲んでいたときのことを思い出した。かえでが投げて跳ね返った水羊羹の竹筒が、マグカップの中にすぽりと入った。ただそれだけのことが誠司には面白かったのに、かえでにうがいと手洗いをさせ、戻ってみると、絵美がどこにもいなかった。
 絵美は寝室にいた。
「ずっとシーツ替えてないでしょ。お父さんの方」
「そうか? そうだな」
「今日は八時までに帰る。もっとおうちで寝かせてあげてくださいだって。お風呂は入っていくから」
 絵美はほどくと肩にかかるまで伸びている髪をうしろでくくっていて、それを一日中気にしていた。人が何度も訪ねてくるせいで、今日は美容院にいけなかった。明日こそはいかなければ。このままにしてるくらいならストッキングをかぶって隠れてるほうがいいよ……
 今日起きたすべての物事が、絵美にとっては好ましく、充実していて、まだぜんぜん働き足りないかのようだった。
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