第30話

文字数 670文字

「私はかえでを置き去りにしたんだ」
 誠司は目の前の男に食ってかかった。
「絵美が仕事に戻りたがっているかどうか――。いや、それも本当はわかってる。ここに戻りたがっているのが」誠司は一瞬で息をついで、ただ同意するだけのことすらさせずに言った。「同じ娘だと思えなくなる。娘はなんであんなことをしたんだ? いつからあんなに――」
 あんなに向こう見ずになったのか――?
 遠い花火が轟いていた。はしゃぎたがりの若者たちが、井坂からこのビルの屋上に入れないと聞き出してもなお、興奮の高まりを見せ、ちょうど出ていってくれないかと考えていた誠司まで色めきたった。「どこかにあるよ」と誰かが言ったとたん、若さゆえの爆発的な笑いが起こった。彼らは世界がそういう仕組みにできているといわんばかりに、ほぼ毎日この調子だった。夜空の輝きにしたところで、外へかりたてるまではいかず、たかがこれしきのことに費やされた。
 井坂が朝礼中の教師のようなそっけない素振りで床の紙くずをとってきた。誠司は手を洗っている井坂に言った。
「自分の子供が酒場に殴り込みをかけるのを想像できるか」
 雨がほっと一息つく口実にしかならないくらい、客足が絶えなかった。井坂は難解な謎をたずさえてテーブル客の元へといった。ここの雰囲気が当たり前になったのか、ときどき従業員がベルトコンベアの工員のように思えた。
 わかりませんと答えることだけはすまいとしているのを見ると、少しばかり良心が咎めた。ついに誠司は口を開いた。
「帰るよ。さっきの発言は忘れてくれ」
 当のかえでは、まだ一才を過ぎたばかりだった。
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