第23話

文字数 885文字

 誠司は「すまないね」と言って、二人の間に割り込んできた客に席をはずさせた。それから気をとりなおすと、家に帰らない理由を井坂にたずねた。これまでの人生で、浮気も酔っ払いの襲撃も、ついぞ経験してこなかった誠司が、この自分よりずっと若い男が、これ以上罰をうけるのは見ていられなかった。何よりこの場所に似つかわしくなかった。ここは絵美が手がけた店でもあった。
「きみが家族を手放してもかまわないと思っているなら、もうここへくるのはやめる。どうなんだ。私は脅すつもりも争うつもりもないんだが」
「おれはここで寝泊りできれば十分なので」
「それがどうした。そんなこと言ったってなにもわからん」
「絵美に帰るように伝えてください。家賃は払いつづけますから」
「きみと絵美のことを聞いてるんじゃない。きみがどこへとんずらしようと、私にはかえでを大学までやるだけの蓄えがあるよ。わかるか?」
 大きな図体をした井坂が、叱られた少年のように俯いた。しばらくすると、沈黙を縫うようにして、誠司の前にピスタチオを置いた。絵美が教えたんだな――。誠司は苦々しく思いながら奥歯で噛み砕いた。
「どうなんだ。はっきりしないか」
「何も言える立場にないのはわかってますが、一緒に暮らしたいと思ってます」
「だけどきみが家にいなければ話す機会もないじゃないか。お願いだからちゃんと帰ってくれ。いいな」
「絵美はどこにいるんですか」
「よくしらんが知り合いのところかホテルだ。私にもはっきりと教えない。そのあたりのことならここの客に聞いたほうが早いだろ」誠司がそのテーブルを見ると、向こうでも察してグラスを掲げた。「まあ、やめておけ。きみももうからかわれるのはたくさんだろうからな」
 はっきり言って、自分が語り合っているのが信じられないような相手も、中にはいた。あくまで一緒に飲んでいてとくに悪い気はしない、という程度のはなしだった。
 井坂は素早くグラスを下げた。
「もう一杯飲みませんか」
「いや。忙しいんだ。かえでのために保育園をさがさなきゃならん」
「それって――?」
「きみならわかるだろう」
 誠司は返事も聞かずにそこを出た。
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