第1話

文字数 3,084文字

 竹中誠司は遥か昔に定年退職して、娘から早く病院へいくように言われていながら無視していた。手の痺れくらいどうってことはないからだ。食器を片づけているといくらか気になりはしたものの、すでにそのときの感覚とともに不安もなくなっている。げんに若いのにまじって購入したトレッキングシューズを履き、十五分ほどの、やや大股の道のりにも、すこしも息が切れていない。これといって気をつけていることはないが、首都圏の通勤にも、娘のための度重なる単身赴任にも耐え抜き、この不確実な時代に大手不動産会社の役員まで勤め上げたのだから、当然といえば当然だろう。そうでなければ、すでに他界した者たちと同じに、自分もまた人生の途上で倒れていたにちがいない。そんなわけで、今はドラッグストアで離乳食を選んでいた。
 何でもいいと言われたが何がいいだろう? 一食で五十キロカロリーとあるのを見ているだけで自然と頬がゆるみ出す。ピンクの歯茎、無上の笑顔、指に吸いついているときの得も言われぬ幸福。今はそういうものを意志の力で遠ざけた。貧しかったころに失った上顎の奥歯をのぞいて、優秀な歯科医とずいぶんな治療費のおかげで、比較的誠司の歯は健康だった。しかし、早く決めなければ自分で食べるつもりじゃないかと疑われてしまう――ここはひとまずそういうことにしよう。
 その薬剤師は亡き妻と顔見知りだった。それに娘も、娘が抱いてあやしている孫も、数日前に見ていた。
「かえでちゃん大きくなりましたね」
「平日だけじゃなかった? 日曜日もやってるの?」
 別のことを考えていたため、思ったことをそのまま口に出してしまった。伴侶に先立たれて一人で暮らしている男親のもとを、ふつう娘が乳児を抱いて訪ねたりするものだろうか? 毎日娘が自宅にいるのだ。あるいは自分に介護が必要であれば、不思議はないのかもしれないが。
 誠司はすぐにぶしつけな質問を謝った。娘ですら親の願いとは裏腹に好きに生きているのに、他人がいつどこで働こうとかってだった。やはり別の店にすればよかった。しかし、いきなり孫のことを尋ねるなんて。
 相手がすこしも気にせずに世間話をつづけているのを有難く思う一方で、今ごろ娘がソファに足を上げ、息抜きと称して電話をしている惨めな光景にどっぷりと浸かっていた。と、急に怒りがこみ上げた。ここへきてようやく気がついたのだ。娘はもう離婚すると言って泣きべそをかいて転がりこんできたのに、まったく懲りていない。その証拠に、いまだ状況を説明しようとしないではないか――。順風漫歩だった自分がどうしてこんな目にあっているのか。親として、ただのわがままなら追い出さなければいけないのだが。引っ越しと新たな生活、妻の闘病と別れにつづいて、ついこのあいだ出産して産婦人科を出たばかりに思っていた娘と孫の三人の生活、育児! こっちは夜泣き一つとってもままならないのに。
 誠司には、まったく何をどうすればいいのかわからなかった。
「順調ですよ。今が一番かわいいときじゃないですか」
「子育て、しなかったわけじゃないんだが、もう憶えてないな」
 薬剤師がレジカウンターの中に入った。カップ麺を買いこんでいる男の後ろに並ぶと、すぐに順番がきた。
「今日もお孫さんがいらしてるんですか」
 誠司もちょうどその返答を考えていた。おむつと離乳食のバーコードが読み取られ、クレジットカードで支払いをした。「ポイントカードはよろしいですか」結局、朝から娘が自宅のマンションにきていることになった。娘には別の店で買い物をするように言わなければいけない。
 ちらほらと客の姿はあるものの、そのときは誰もうしろに並ばなかった。
 地域の包括センターでは様々なセミナーが行われていた。中でも親子で参加できるものが盛況だった。薬剤師は引き出しの中をさがしたが見つからず、それを口頭で説明した。
「お父さんやおじいちゃん世代の方もお越しになられますよ」
 突然、誠司はけんもほろろに拒絶し、薬剤師を慌てさせた。
「すいません。べつに無理にというわけじゃないので」
 誠司はもう聞いていなかった。なぜか頭の中では〝民生委員〟という言葉がよぎっていた。それから生活保護、徘徊老人、免許証の返還も。虚言などにいたっては過去に関わっていた人物の悪習であり、まったく自分のことですらなかった。
 誠司はすばやく紙おむつをとって「ありがとう」と二回言った。もちろん彼女には何の罪もない。彼女はただよかれと思って薦めただけだとわかっていた。
 苦労して手に入れた一軒家を処分したのは二年前。家の設備が合わなくなっていたことと、近所の人間に嫌気が差していたことから、何もかもを一新して身軽になろうとしたのだ。それなのに病気のやつが横槍をいれ、妻だけがこの町を知る間もなく逝ってしまった。妻は庭にきた鳥のことならなんでも知っていた。野菜を育てる妻の傍らで、腐葉土をすきこんだ土を掘り返していたころは、まさしく二人が望んだ余生だった。
 誠司はアスファルトのパーキングから入って、風が吹きすさぶ建物沿いに歩き、L字に配置された二棟の間にさしかかったところで、またその花を睨みつけた。ごつごつとした長い茎をたくさん立ち上げ、かならず二三輪つけている不気味な植物が、そこで出迎えていた。共有地でなければ引っこ抜いてやるのに! 誠司は今日も思った。妻はなぜ死んだのだろう――
 最近わかったのは、十年前から病気の存在を知っていたとしても、自分が妻のために、まったく今と同じにしただろうということだった。妻とともに人生を歩めて幸せだった。一度もそんな会話をすることはなかったのだが。家の売却も、このマンションも、妻が望んで決めたことだった。
 誠司は鍵と防犯ロックをして靴を脱いだ。
「スーパーにいかなかったんだ。これあまり食べなかったやつじゃん」
「そんなことまでわかるか」
 めんどくさ、と絵美が吐き捨て、だから今教えているのにとつぶやいた。まっすぐに対峙する誠司をよそに、絵美は三センチ分の人参を裏ごしし、取り皿をわきに置いて手を洗った。電話で話していた相手を尋ねると、「どうかしたの」と絵美が問い返した。また何かあったにしては落ち着いている。あるいは、自分が思ったとおりの発言をしているにちがいない。
 絵美ははじめての出産を教科書どおりの安産で難なく乗りこえたものの、すでにそれなりに高齢の三十六歳だった。そんなこともあって、誠司は方々へ頭を下げて回ったものだが、その娘の知り合いの女のことだけは、どうしても好きになれなかった。顔も名前も知らず、声を聞いたこともないのに。また、その女が電話の相手とかぎらないのに、何かが生理的に受けつけなかった。以前から少しは知っていたとか、久しぶりの再会のようなものではなく、最近知り合ったらしい。女友達なんてみんな、多かれ少なかれ、占い師みたいにいかがわしいものじゃないだろうか。そんなふうに考えてきた自分が、それでも悪い影響を怖れるのだから、それは誠司にとってよほどのことだったのだ。
 絵美は警戒していた。母子健診の予定を話しているときに、さりげなくもう一度電話の相手を尋ねてみたが、どうとでもとれるあやふやな返事しかしなかった。そのあと、絵美が「ちょっと出かけていい?」と言ったので、これはもう間違いないと思い、みるみるうちに暗い気持ちが広がった。誠司は思った。電話の人物も、これから会いにいく人物も、やはり同じあの女だ。いったい娘はどうしてしまったのだろう? 何が起きているのだろう?
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