エピローグ 1
文字数 1,838文字
いるはずのないパーキングで、誠司が若い女と車に乗っていったと聞かされて以来、絵美は、客たちが色めき立つのを見ながら、必死に感情を抑えていた。かえでの見守りサービスの位置情報が向かっている先が、父のマンションであることは、やがてわかった。だが、すぐに警察に通報しなかった。絵美はそのことで自分を責めつづけていた。
絵美は、数人の客と、二台の車にわかれて追いかけた。井坂は客の知らせを受けるなり、父の家の鍵を絵美からとり上げ、一人きりでバーをとび出していった。絵美が車の中から電話したときも、井坂はもう向かっていると言って電話を切った。いまならあたしを安心させたかったのだとわかる。そうしないと最悪の事態を想像しただろうから。
絵美は、夫の腕の中にかえでを見ているというのに、大声で叫び出しそうになった。ダイニングチェアが一脚だけベランダのほうあり、傍らに一巻きのロープが置かれていた。まず夫ともう一人が中に入り、他の客がとび込んでいくのに、絵美はまだ入ることを許されなかった。絵美がかえでを抱きしめて、その無事をたしかめたときには、ダイニングチェアが一脚だけベランダのほうあり、傍らに一巻きのロープが置かれていた。夫が父をかかえて寝室にいくときですら、どういうわけかも知らされないまま、客たちが絵美を引き留めていた。
やがて、聞き覚えのある咳が、そこにいる全員の耳に届いた。「こんなときに何をやってるの」絵美は矢も楯もたまらずにドアの向こうへ問いかけた。
そして、これまでに一度も聞いたことのない、夫の張り裂けんばかりの怒号を聞いた。
父がジャケットを着替えて、ベッドの端に座っていた。とくにお気に入りの、色調を抑えた空色のやつだった。父はかえでを見ると、絵美に向かってやさしく微笑んだ。
絵美にもようやくわかりはじめてきた。
誠司が孫の防犯グッズに助けられたことを冗談めかして話していた。絵美はぐっと奥歯をかむと、泣きたい気持ちをしめ出して笑った。
「無理してしゃべらなくていいよ」それから絵美は、父の横に座って耳を近づけた。だが、それはできない相談だった。
「なんて?」客が尋ねた。
「バーに帰りたいって。警察に知らせるまえに場所をかえたいみたい」
「それはまずいだろ。そんなことしたら、なあ」
絵美が父を説得しなければいけなかった。しかし、できなかった。
「帰ったらかならずあたしが出頭するから。おねがい、いまはお父さんの言うとおりにしてあげて」絵美が父に味方すると、誰も文句を言わなくなった。
相田千佳から夫に着信が入ったときもそうだった。夫が激情に駆られているのがわかっていながら、絵美にはどうすることもできなかった。「あたしにかわって!」自分の声がむなしく響いた。かえでを抱いている絵美だけが蚊帳の外だった。目の前で起きていることすら把握しきれない。かってに話が進められていく。ところが、自分自身が、それをどこかで当然のこととして受け入れている。明らかに危険だった。責任の問題もあった。みんなで止めようとするものの、夫は誰の言うことも聞き入れず、最後にはたった一人だけついていくことを許して出ていった。
若い客が父をおぶって寝室を出た。絵美はリビングへひきかえした。
「さわったらいけない」空気がはりつめるような強い口調だった。絵美を一瞬たりとも一人にしないという決然とした態度で、客がうしろに立っていた。
「じゃあここに置いておくの? こんなものを?」
「井坂くんのこともあるし、早く帰らないと」
そこに投げ出されている黒いリュックを外に出してしまいたかった。父の居住空間にあると、それは途轍もなく穢れたもののように感じられた。「――何が入ってるの?」なにか自分に発破をかけるものがほしい。そういった類のものがこの中にはある。そのうえ夫をいかせてしまった。
「あたしがとめなければいけなかったんだ。わかってるのに」
「いまはみんな気が変になってる。おれだってこんなことをしたやつを捕まえてぶちのめしてやりたいよ」
ただ静かに飲んで帰るだけの、扇情的な物事とまったく無縁に生きていると思っていた男が、人を殺したって不思議でも何でもないような怒りをたたえた目でこっちを見ていた。絵美は結局、それに指一本触れなかった。お父さんじゃなくてあたしにすればよかったのに――
「つぎにすべきことを考えよう」
「あたしに何ができるっていうの」
かえでが怖がっていることに気づいた絵美は、車へと急いだ。
絵美は、数人の客と、二台の車にわかれて追いかけた。井坂は客の知らせを受けるなり、父の家の鍵を絵美からとり上げ、一人きりでバーをとび出していった。絵美が車の中から電話したときも、井坂はもう向かっていると言って電話を切った。いまならあたしを安心させたかったのだとわかる。そうしないと最悪の事態を想像しただろうから。
絵美は、夫の腕の中にかえでを見ているというのに、大声で叫び出しそうになった。ダイニングチェアが一脚だけベランダのほうあり、傍らに一巻きのロープが置かれていた。まず夫ともう一人が中に入り、他の客がとび込んでいくのに、絵美はまだ入ることを許されなかった。絵美がかえでを抱きしめて、その無事をたしかめたときには、ダイニングチェアが一脚だけベランダのほうあり、傍らに一巻きのロープが置かれていた。夫が父をかかえて寝室にいくときですら、どういうわけかも知らされないまま、客たちが絵美を引き留めていた。
やがて、聞き覚えのある咳が、そこにいる全員の耳に届いた。「こんなときに何をやってるの」絵美は矢も楯もたまらずにドアの向こうへ問いかけた。
そして、これまでに一度も聞いたことのない、夫の張り裂けんばかりの怒号を聞いた。
父がジャケットを着替えて、ベッドの端に座っていた。とくにお気に入りの、色調を抑えた空色のやつだった。父はかえでを見ると、絵美に向かってやさしく微笑んだ。
絵美にもようやくわかりはじめてきた。
誠司が孫の防犯グッズに助けられたことを冗談めかして話していた。絵美はぐっと奥歯をかむと、泣きたい気持ちをしめ出して笑った。
「無理してしゃべらなくていいよ」それから絵美は、父の横に座って耳を近づけた。だが、それはできない相談だった。
「なんて?」客が尋ねた。
「バーに帰りたいって。警察に知らせるまえに場所をかえたいみたい」
「それはまずいだろ。そんなことしたら、なあ」
絵美が父を説得しなければいけなかった。しかし、できなかった。
「帰ったらかならずあたしが出頭するから。おねがい、いまはお父さんの言うとおりにしてあげて」絵美が父に味方すると、誰も文句を言わなくなった。
相田千佳から夫に着信が入ったときもそうだった。夫が激情に駆られているのがわかっていながら、絵美にはどうすることもできなかった。「あたしにかわって!」自分の声がむなしく響いた。かえでを抱いている絵美だけが蚊帳の外だった。目の前で起きていることすら把握しきれない。かってに話が進められていく。ところが、自分自身が、それをどこかで当然のこととして受け入れている。明らかに危険だった。責任の問題もあった。みんなで止めようとするものの、夫は誰の言うことも聞き入れず、最後にはたった一人だけついていくことを許して出ていった。
若い客が父をおぶって寝室を出た。絵美はリビングへひきかえした。
「さわったらいけない」空気がはりつめるような強い口調だった。絵美を一瞬たりとも一人にしないという決然とした態度で、客がうしろに立っていた。
「じゃあここに置いておくの? こんなものを?」
「井坂くんのこともあるし、早く帰らないと」
そこに投げ出されている黒いリュックを外に出してしまいたかった。父の居住空間にあると、それは途轍もなく穢れたもののように感じられた。「――何が入ってるの?」なにか自分に発破をかけるものがほしい。そういった類のものがこの中にはある。そのうえ夫をいかせてしまった。
「あたしがとめなければいけなかったんだ。わかってるのに」
「いまはみんな気が変になってる。おれだってこんなことをしたやつを捕まえてぶちのめしてやりたいよ」
ただ静かに飲んで帰るだけの、扇情的な物事とまったく無縁に生きていると思っていた男が、人を殺したって不思議でも何でもないような怒りをたたえた目でこっちを見ていた。絵美は結局、それに指一本触れなかった。お父さんじゃなくてあたしにすればよかったのに――
「つぎにすべきことを考えよう」
「あたしに何ができるっていうの」
かえでが怖がっていることに気づいた絵美は、車へと急いだ。