第46話

文字数 2,509文字

 ジャズにしろ、クラシックにしろ、一つとして曲名をあげられないが、誠司は商店通りをかき分けるように侵入してくる車や人の喧騒を、地下にいて、はじめて心なごむ音楽のように楽しんでいた。磨き上げたカウンターとビールサーバーが、今はただ一人、誠司のためにあった。絵美がハッシュドビーフの鍋を火にかけながら、家で出すのとは一味違うマリネを最後に軽く混ぜ、皿にとってくれたのが絶品だった。
「この程度で驚かないでよ。ここからまだ三種類のソースと肉の下ごしらえがあるんだからね」
 絵美は言うが早いか、もう調理器具を洗って次の作業にとりかかった。
 まだ準備中の昼間であるものの、絵美はなにもかも吹っ切るように働いている。いつから娘のことに関知しなくなっていたのだろう。知らないでおくことで安心したかったのだろうか。いずれ他人のものになってしまう性――要するに娘を“もの”としてとらえていたんだなと問われたら、しどろもどろになるのが目に見えていた。誠司は娘が飲み屋めぐりをしていると聞いても、ちっとも関心を向けようとしてこなかった。それは妻ですら退屈させていたにちがいなかった。
 絵美は今度のことでたくさん電話をしていた。あずみのことを知っている者ですら、相田千佳は知らなかった。この日は、絵美がその中の一人と、数年ぶりに旧交を温める約束だった。
 物思いにふけっている誠司に、井坂が「食べますか」と聞いた。
「それは傷みかけたやつだからね」
 絵美には見ないでもわかるらしく、井坂が不敵な笑みを浮かべてりんごをかじった。
「あたし迎えにいってくる。ここを見つけられないかもしれない」
「まだ時間じゃないぞ」と誠司は窘めた。というのも、井坂がコーヒーを入れようとしはじめたとたんだったからだ。絵美が即座に言った。「そういう人なのよ」
 絵美がエプロンを脱いでいるとき、すでに井坂が何か作りはじめ、三十分か四十分ほどで絵美が友達をつれて戻ったときには、井坂は素知らぬ顔で吊り棚を拭いていた。絵美はあらたまった様子で小さな贈り物を受けとり、結婚と出産、それにバーの移転のことなどを囁き合った。あの夜の出来事が、目覚めの一瞬の、たんなる悪夢でしかなかったような穏やかな光景――
 まったく絶妙のタイミングだなと思いながら、井坂がカウンターを出て、二皿のサンドイッチを運んでいくのを、誠司は体を回して見ていた。
 慌てふためいた様子で遠慮している友達に、絵美が夫を紹介した。
「それから、あっちはお父さん」
「――あ、どうもお邪魔してます」絵美の友達が遠くから頭を下げた。
 あの眼鏡は子供ができてからしたやつだな、と誠司はどういうわけかそう思った。白くつるんとした額。真ん中で分けた黒髪。井坂が飲み物を何にするか尋ね、絵美には何もさせなかった。その入り口のところのテーブルには、ほどよく階上の光が差していた。絵美は後悔しているにちがいない。しかし、それは友達をここにつれてきてしまったからか? それとも井坂と結婚したことをか? そもそも飲み歩きをしなければ、誰とも知り合わず、遊びの延長でちっぽけなバーを手伝いはじめることもなかったのだ。ガラス器の赤いダリアは、井坂が絵美に向けたラブレターだろう。ダリアは妻がよく庭に植えていた。もとは妻が好きだった花だ。絵美はやさしい。いつも人のためを優先するから、一度迷いはじめたらとことんまでややこしくなるのを覚悟したほうがいい。
 井坂が〝いい夫〟を見せようと奮闘している。それこそ一流のホストのような歓迎ぶりだ。
 絵美が井坂を追いやった。絵美は手を振るまでして、必死になって否定した。
 〝いつもこんなにしてもらってるの?〟
 女が悩める男に弱いのは永遠にかわらないのだろうな――。誠司は前を向いて言った。
「花束風のサンドイッチか。器用なものだな」
「誰でもできますよ」
「さっぱりつたわってないようだが」
 井坂が寂しそうににこりとした。生ハムを切らしているらしく、誠司にはツナとアボカドのサンドイッチだった。
「君は、絵美が自分のどこに惚れたんだと思う?」――いや、質問をかえよう、と誠司は答えを聞かずに言った。「最初の印象はどうだった?」
「なんか、結婚したいって、はじめて思いました」
「結婚って、君みたいな男でも結婚願望があるのか? こういうときに人は結婚するんだろうなと感じただけじゃなくて?」
「自分のこととしてです」
「うん、まあ、そういうんだからそうなんだろうな」誠司はサンドイッチにかぶりついた。中に何が入っているかは知らないが、文句をつけようのない味だった。「タイミングとか、仕事の状況もあるしな。ちょうどそんなときだったか」
「すごく純粋だなって」
 誠司は思わず噴き出しそうになった。「本気で酒瓶をふり回してきた相手に、純粋はないだろ」
「女性にたいしてあまりいい思い出がないので。いや、だからじゃなくて、店を手伝ってもらうまえから考えてました。なんか自分でも戸惑ってしまって、最初はわからなかったんですが……」
 誠司はときどき返事をしつつ、感慨にふけった。絵美が社会人になってからのことは知らないが、特定の異性は十代のころからつくっていた。誠司はふと、そのうちの一人と自宅で会ったことを、高校生らしい真面目で平凡な青年を思い出した。あとにもさきにもどこがいいのかさっぱりわからなかった。絵美には愛嬌もある。今だって家に閉じこもりさえしなければ、いちいち再婚相手をさがすまでもないだろう。ただ、この男の前では、いくぶん次元がちがうのだ。親の劣等意識だろうか。
 絵美の客受けのよさを話していたらしいが、誠司は井坂が押し黙っていることに気づいて、詫びるようにくつくつと笑った。ねちねちと痛めつけようとは思わない。なにか気の置けない話ができさえすればいいのだ。この男が本気で後悔しているのはもうわかったではないか。
「暗いんだな。もうすこし喜んでるのかと思ったが」
 井坂が壁に近づいて照明の数を増やすと、誠司はむっとし、もう一人のわからず屋に嫌味を言った。
「やっぱりきみは二枚目より三枚目のほうが似合うよ」り三枚目のほうが似合うよ」
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