第42話

文字数 1,217文字

 おべっかにはいつもきょとんとするかえでだから、〝いってらっしゃい〟にも反応が薄かった。
「よかったねー。また会えたねー」
 誠司は手を振りながらも、ぴたりと足を止めた。「んーどうなのかな」と誠司はことさら曖昧に答えた。――で、どうでした? その後何かありました? と一昨日の保育士が尋ねたからだ。下手に怯えてはならないし、体力がない点は経験でおぎなえば、容易に立ち向えると思った。
 黄色い重機柄のネクタイを締めている男が油断なく見ていた。誠司はぎょっとすると同時に、にこやかな表情であいさつした。もちろん、その男は世間話をしにきたのではなかった。園の経営に携わっているのは明らかで、誠司より少し若いくらいの男が、どういうわけかそれすらはぐらかして、安全対策について解説をはじめた。母親がこなくて何が悪い。誠司が車に残っているように言ったからだ。そもそも自分がここへ出向いてくること自体稀なのだと言いたげな口ぶりだった。
 エプロンをした小柄な保育士が、ガラス張りの二重扉を出てきて誠司を見送った。あの男に日ごろから手を焼いているにちがいない。彼女たちがもっとも弱い立場に置かれている。あるいは絵美への共感のような考えが高まってきて、いつもありがとう、とまったく際限なく、天使の心を強いられる彼女たちに、誠司は思った。
 まず呼吸を整えてからシートベルトを締めた。いつの間にか、絵美が人と話せるような状態ではないところまで、どっぷりと沈みこんでいた。
 こんな状況下にしては不思議なほど、きちんと片付いていることは、部屋に入ったときに気づいた。誠司は柔らかいラグマットの上で足を延ばし、わずかに目を上げた。
「やっぱりいなくなってる」絵美は引き戸を閉めながら電話した。井坂があずみのマンションにいると聞いて、誠司は少なからず驚いた。
「なんだ? そこで待つ気でいるのか」と誠司は横から割り込んだ。
「そうみたい」
絵美が足を踏みかえ、誠司を視野の外に捨て置いた。いったんあずみに電話をしたにちがいない。そのわりに諦めるのも簡単で、また井坂にかけなおしている。「今お父さんがきてるの」と愛情も温もりもない声。
「あの女が帰ってくるのか。そんな時間なのか」
「ちがうと思うよ」
 思わず、そっけない返事にかちんときた。
「女同士でべったりくっついていたくせに、そんなことも知らないのか」
「しらない!」
 絵美がスマートフォンの会話に戻ると、誠司は鼓を打つように、ひとつテーブルをたたいた。
あの馬鹿もんが――。家族を置き去りにしてなんて体たらくだろう。いったいここで二人して何をしていたのか。目の前にいるときはいかにも信用できるのに、ひとたび姿を消せばどこにでもいる軽薄な男なのだ。ぎくしゃくしているのをどうにかするのが先ではないのか。そういえば絵美が喜んでいただろうか。もしあの女のことで何か秘密を隠していたら――。それはない。いや、それだけは考えたくない。
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