第35話

文字数 1,620文字

 今のところ絵美が送り迎えをしているので、かえでが保育園に通いはじめて一週間が過ぎても、誠司の出番はなかった。
 絵美が誠司のマンションにきて、一緒に昼食をとっていた。
「お父さんに何かあってもあたしがちゃんとするから全部出しておけばいいよ」
 空っぽだったキャビネットに、妻のお気に入りの食器が並べられていくのを、誠司はぼんやりと眺めた。
 誠司は玄関まで出て「ありがとう」と絵美に言った。
 井坂から電話だった。誠司はスマートフォンの画面にタッチしながら、絵美に何かあったのだろうかとちらっと考えた。絵美は昨日たくさんつくった夕食のおかずを届けにきたが、今日のことは何も言わなかった。
「どうした? なんの用だ?」
「そっちに絵美がいってませんか」
「今日はきてない。それより絵美はまだか。日中だけ仕事をはじめてもいいころだが」
 井坂は自宅から電話をかけていた。井坂が二言目にはあずみのことを聞くので、誠司は理解が追いつかなかった。一瞬、何を言ってるのかすらわからず、聞き返した。
「ああそうだ。一度は遠くから見かただけだがな。会ったことはある。いったいなんの話だ?」
「いま電話があって、かえでを連れ去ったって言うんです」
「絵美が一緒にいるんだろう?」
「前に付き合ってたんです! そのあずみってのが千佳なんです!」
 まったく訳がわからなかった。電話の声がやかましく、なぜか無性に腹が立った。いや、声のせいではなく、不貞のにおいがするからだ。また自分たちが巻き添えを食わされるのか。
 誠司があずみの外見を何とか思い出そうとしながらつたえると、苦しげなうめき声が聞こえた。とにかくまちがいないようだった。
「千佳がどこに住んでるか知りませんか。電話番号とか」
「千佳なんて名前の人物は知らないが――」
「だからあずみは嘘で、相田千佳が本当の名前です。もうずっと昔のことです」
「それが、どうした――?」
「千佳がいきなり電話してきたんです」井坂が決まり悪そうに言った。井坂が千佳と口にする声には、憎しみとも恐れともつかない、ふるえるような響きがあった。
「何をした?」
「何もしてません。もう十年も会ってなかったくらいでバーにもきてません」
「何かひどいことをしたのか。恨まれるような」
「そんなことは――。別れたときにいろいろあったのはたしかですが。つきまとわれたのはこっちだから」井坂は考え込んでいる様子だった。「でも今になって脅されていいようなことはしてません。子供を傷つけられるようなことはまったく――。信じてください」
 誠司は時計を見た。午前十一時八分か九分。よく見えないし、まともに見る気がしない。しかしかえでだ。屋内で昼食か、昼食前の手洗いをしているころだ。誠司はまだ半信半疑だった。
「かえでは保育園にいるはずだが。絵美は? ちょっと待ってくれ」
 絵美に電話したがつながらなかった。SNSにもいれてみたが、もちろんすぐに返事があるはずもない。また電源を切っているのだ。あずみが電源を切らせていたということか? いま会っているのか?
 こんな状況下だというのに、危機感が鈍い自分を叱った。保育園だ! 誠司は保育園に電話した。
「えーと、誰もきてませんが。かえでちゃんならいると思いますよ。――あ、はい。ちゃんとここにいます」それから何人かの若い女性が名前と顔を確認し合っているのが聞こえた。「大丈夫です。ちゃんとこちらで預かってます」
「そうですか。忙しいところ申し訳ない」
 誠司は礼を言って電話を切ろうとしながらも、家族以外の者が迎えにいくことはないのでくれぐれもお願いしますと念を押した。言われるまでもないことだ。かえって不信感を与えたにちがいない。そういえば男の保育士もいるのだ。今日はどうだろう? もしいたら、真っ先に飛んできて、こっちの行く手をさえぎることだろう。
 誠司は井坂に電話しておきながらワンコールで切っていた。とにかく自分で保育園にいくしかなかった。
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