第63話
文字数 1,350文字
この二日間は誰とも会わなかった。雲行きがあやしくなってすぐに降り出したから、電話はしなかった。それがバーへ向っている間に、いったん車を止めて電話しなければいけないほどの激しさにかわった。
雨の中を一人では無理だと思い、マンションを出てきたものの、まさか自分が一人で迎えにいく羽目になると思わなかった。パーキングから井坂に電話を入れ、かえでが濡れないように、二人で傘をさして階段を下りた。中は水を打ったように静かだった。前触れもなく変化する気象に慣れたのか、雨宿り客の一人もおらず、絵美は奥で眠っていた。
カフェタイムの従業員は、実家の訪問をやめて土曜日に働くこともできた。井坂が気にしないで休暇をとってくれと言った。何度も同じ会話につき合わされている顔が、苦しまぎれににやにやと緩んでいる。もはや楽むしかないと諦めたらしい。
そのクッションを一目で気に入ったかえでが、従業員が「ぐわん!」と擬音をつけてつかみとると、その大きさにあんぐりと口を開けた。クッションといっしょに仲良く膝にのせてもらって楽しそうだ。ここへくるたびにかえでが大はしゃぎするから笑いが絶えない。
小学生の子供をもつ従業員がかえでの年頃を懐かしんだ。誠司は虫歯の治療につきそう親の苦労に噴き出しつつ、関心をもって聞いていた。
「ちょっと横になるつもりが寝ちゃってた」
奥から出てきた絵美に、従業員がのんびりと声をかけた。「まだ一人もこないよー」それでもあっけらかんとした笑いが萎んでしまったことにかわりはなかった。
絵美がかえでを抱いてドアを開けたとたん、耳を聾するほどの雨音が押し寄せた。
誠司は最後にさっと手を拭くと、タオルをたたんでそこに置いた。井坂がとりにきたと思ったのだ。井坂は傘をとって外に出た。
かえでがさわろうとするものの、あらゆるところから雫が垂れ、飛沫がとび散り、一面に水が流れている。今のは、〝やー!〟と、〝つめたいー!〟と、そう言ったのだろうか? たまにはこんな日があってもいいじゃないかと言えば、絵美が愛想をつかし、運転資金についてとやかく言い出すにちがいない。絵美は自分に言い聞かせているのだ。しかし、本人たちの思いがどうであれ、今このときはまちがいなく親子三人の時間だ、と誠司は思った。それを胸の奥にしまっておけば、この先どんなことが待ちうけていようとやっていける。どこから何を言われようと知ったことか。すきにすればいいんだ。過ぎてしまえばみんな過去の記憶でしかなくなっていく。ところが、誠司にもそれを知るまでの苦しみがあったのに、これまでのところ何も言おうとしてこなかった。
絵美たちを間近に見ているせいか、今また、自分のことがうまく考えられなくなっていた。
従業員がタオルを回収して、温かい飲み物を入れにいった。「ほんとに大丈夫でしょうか。なんでも手際よくやってるけど、もっと休んでいていいのに」誠司は、絵美の体を気づかっている従業員のほうを見て、心配いらないと安心させた。
「私は子供を産んだことがないからわからないがね。病院にかけつけたときには妻が眠ってたし、絵美は新生児室にいたから、どれが自分の子供かわからなかったものだ」
「だから男の人は駄目なんですよ。すぐに自分のことだけになっちゃう」
雨の中を一人では無理だと思い、マンションを出てきたものの、まさか自分が一人で迎えにいく羽目になると思わなかった。パーキングから井坂に電話を入れ、かえでが濡れないように、二人で傘をさして階段を下りた。中は水を打ったように静かだった。前触れもなく変化する気象に慣れたのか、雨宿り客の一人もおらず、絵美は奥で眠っていた。
カフェタイムの従業員は、実家の訪問をやめて土曜日に働くこともできた。井坂が気にしないで休暇をとってくれと言った。何度も同じ会話につき合わされている顔が、苦しまぎれににやにやと緩んでいる。もはや楽むしかないと諦めたらしい。
そのクッションを一目で気に入ったかえでが、従業員が「ぐわん!」と擬音をつけてつかみとると、その大きさにあんぐりと口を開けた。クッションといっしょに仲良く膝にのせてもらって楽しそうだ。ここへくるたびにかえでが大はしゃぎするから笑いが絶えない。
小学生の子供をもつ従業員がかえでの年頃を懐かしんだ。誠司は虫歯の治療につきそう親の苦労に噴き出しつつ、関心をもって聞いていた。
「ちょっと横になるつもりが寝ちゃってた」
奥から出てきた絵美に、従業員がのんびりと声をかけた。「まだ一人もこないよー」それでもあっけらかんとした笑いが萎んでしまったことにかわりはなかった。
絵美がかえでを抱いてドアを開けたとたん、耳を聾するほどの雨音が押し寄せた。
誠司は最後にさっと手を拭くと、タオルをたたんでそこに置いた。井坂がとりにきたと思ったのだ。井坂は傘をとって外に出た。
かえでがさわろうとするものの、あらゆるところから雫が垂れ、飛沫がとび散り、一面に水が流れている。今のは、〝やー!〟と、〝つめたいー!〟と、そう言ったのだろうか? たまにはこんな日があってもいいじゃないかと言えば、絵美が愛想をつかし、運転資金についてとやかく言い出すにちがいない。絵美は自分に言い聞かせているのだ。しかし、本人たちの思いがどうであれ、今このときはまちがいなく親子三人の時間だ、と誠司は思った。それを胸の奥にしまっておけば、この先どんなことが待ちうけていようとやっていける。どこから何を言われようと知ったことか。すきにすればいいんだ。過ぎてしまえばみんな過去の記憶でしかなくなっていく。ところが、誠司にもそれを知るまでの苦しみがあったのに、これまでのところ何も言おうとしてこなかった。
絵美たちを間近に見ているせいか、今また、自分のことがうまく考えられなくなっていた。
従業員がタオルを回収して、温かい飲み物を入れにいった。「ほんとに大丈夫でしょうか。なんでも手際よくやってるけど、もっと休んでいていいのに」誠司は、絵美の体を気づかっている従業員のほうを見て、心配いらないと安心させた。
「私は子供を産んだことがないからわからないがね。病院にかけつけたときには妻が眠ってたし、絵美は新生児室にいたから、どれが自分の子供かわからなかったものだ」
「だから男の人は駄目なんですよ。すぐに自分のことだけになっちゃう」