第32話

文字数 1,821文字

「どうなってる? 医者に診せておいてこれなのか」
「そこまで大それた怪我じゃないですよ」
 誠司は曲がっている指を押したり捻ったりしたが、井坂は少しも痛がらず、それが嘘でないのを証明するようににこりと微笑んだ。
「むかしバスケしてたんですよ」
「バスケといったって。みんなこうなるようなら大問題になってる」
 井坂が美容院で整えた髪をなでつけた。怪我をしている間もポマードをつけていたし、包帯をとるにあたって、髪がより自然な風合いにカールしていた。誠司は何事か言ってやろうとしたものの、舌が直接脳へと拒絶をつたえているのか、なにも思いつくことができなかった。
「このとおり。自然に治ります」
 誠司はただこくりと相槌を打った。ほんとだな、とはさすがに言えなかった。
 いつものペースで飲んで、いつものように同席して、すこしだけ人の話も楽しんだ。そうこうするうちに、たしかに自然と心がほぐれた。
 白骨化した指が生きている人間にくっついているくらい衝撃を、誠司はその後も忘れなかった。多くの仕事に事故はつきものだが、これはいったいどう考えればいいのか? だいたいはじめてその手を見た自分に、どうして曲がっているといえるのか?
 ところが井坂のほうこそその話題を避け、なんなら隠そうとさえしたのだ。あのころ寝るときは枕をどうしていたのか? 夜通し椅子に座っていたのか?
 まず学生が約束の時間にあらわれた。誠司は新聞を開き、もう一人を待った。
「六時八分ですよ。あれだけ言ったくせに遅刻じゃないですか」と学生が言った。
「ええ? 走ってきたんだから感謝されてもいいくらいだろ」
 学生よりずっと年上の男が急に礼儀正しくなり、仕事で遅れたことを誠司に詫びた。面白い二人だった。浴衣を着た学生と、ノーネクタイでジャケットなしのさわやかなビジネスマン。誠司は、落ち着いた佇まいを身につけている二人を、とても好ましく感じた。
 このバーが気に入ったのだろうか? 誠司は自分に問いかけてみたが、何をどう考えていいかわからなかった。これは絵美のことと関係ない――わけでもないか。だが、今からすることは必要なことだし、絵美の信頼を損なうわけではないだろう。少なくとも怒って金を突き返したりはしないはずだ――、となんとも歯切れの悪い考えをしていた。そのせいで、白封筒を二つ用意しておきながら、昨晩も遅くまで眠れなかったのだ。
「こいつがいなくなったら飲む回数が減るでしょうね。いいやつなんですよ」年上の男が学生の肩を鷲掴みにして、こちらを覗きこんだ。「――新しく書き直さないんですか?」
 誠司は二枚の借用書に目を通しながら「取り立てにきたわけじゃないから」と言った。
 このバーに融資した五万円の一口と二口は、すでに二人の懐に返していた。誠司が買いとったのだ。結局わずか七ヵ月での解消となったが、それぞれに納得のいく理由があったし、誠司が希望して話を広めていたからこそ、手を上げた二人だった。
「こいつ最初はここで就職するはずだったんですよ。そうだよな」
「学校のやつらともたまにきます。今は一人でくるぐらいここの雰囲気が気に入ってる」
「いいね。人数が多すぎてもあれだしね。――二人ともビールでいいね?」
 誠司はそう言うと、目鼻立ちがくっきりした従業員にビールを頼んだ。もちろん酒代は払わない。
「やっとバイトが終わったあ、と思って帰ったら、いきなりこの人に誘われたんです。未成年じゃないよね、ちょっと付き合えよってからまれたら、怖くないですか」
「そういえば同じマンションなんだってね」
「こいつが一階にいます」
「それは運の尽きだな」
 まだまだ道半ばだ。あらゆる困難にぶつかるのはここからだ。誠司は兄弟みたいな関係の彼らに羨望をおぼえたが、いまさら過去に戻りたいなんて思えないのも事実だった。
 こんな二人も気に入って飲みにきていた。彼らが何を知り、何を考えたかは、誠司にとってどうでもいいことだった。
 井坂が二人に礼を言いにきた。
「おれもこんな店やりたいなあ」と学生の方がお世辞を言った。
 井坂は申し分のない笑顔で受けとめ、客商売のお手本のように誠司にも話しかけた。
 男は男に甘いか――。誠司はまだ絵美から言われたことを気にしていた。自分ではそれ以上に娘に甘くしていると考えていたから。
 絵美と同じだな。もう好きや嫌いで表現できない。しかし、欠かせないものになりつつあるのは、認めなければならないようだ。
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