エピローグ 2

文字数 3,097文字

 バーで留守番をしている客たちは、徐々に不安が高まる中で、絵美からの知らせを待っていた。だから絵美の姿が見えたときは笑顔が広がり、その胸に子供がいることにちょっとしたよろこびの声を上げた。ところが、誠司がまったく別人のように変わり果てていた。誠司は朦朧とした様子で何度も鋳物の手すりにしがみついていた。
 びっくりして赤いアーチのドアにかけよろうとした客たちは、そんなところでぼやぼやしてはいなかった。誰からともなく声を上げた。「テーブルを動かして。それじゃ中に入れない」彼らは一番大きなソファーを四人がかりで持ち上げた。「横になれるようにして。もっとこっちへ。こっちへ向けて!」絵美がかえでをあずけた女性は、愚かしく思いながらも、その質問を投げかけた。「この子は大丈夫なのね? どこも悪くないんでしょ?」
 誠司は絵美がさし出す水を口に含み、バケツの中に力なく吐き出した。誠司はうがいをすることも、飲むこともできなかった。
 また新しい情報が入ったにちがいない。
「ごめん。ちょっと静かにして――」
 誠司のマンションを出るときに、二手に分かれた車がついに井坂に追いつこうとしていた。 最初は野球場に隣接した公園、つぎはショッピングモール、それがまた行く先をかえてこちらを翻弄した。警察にはすでに後続車から通報していた。
「車種とナンバーを警察につたえたって」男がスマートフォンを片手に皆につたえた。
「逆方向へ走ってたらどうする? 逃亡されてしまうだろうな」
 たとえそうだとしても彼らには何もできないのだった。それに警察からただちに追跡をやめてくださいと説得されてもいた。「――袋の鼠が。やっかいだな」つかまるのは時間の問題にちがいない。だが、潜伏して舞い戻ってきたら? 井坂が考えているのはそこだろうと誰もが結論づけた。相手が本当に車をとめて降りてくる可能性があるかぎりは、従うしかなかった。
 年輩の男が打開策を講じるように手をこすり合わせた。
「井坂くんだってもう落ち着いてる」
「子供を駅まで乗せてなかったらバイクできたのにな」
「明日も休みだよ」時間については、皆問題なかった。「そうだ。ここへくる可能性ってあるかな」
 絵美が一人一人にお茶を運んだ。横になろうとしない誠司の膝に毛布をかけた女性が「病院にいかないの?」と絵美に尋ねた。絵美は、困り果てているようにも、安堵しているようにもとれるかんじで微笑んだ。もちろん、何人かの客は、誠司がこんなところにいられるような体でないことを知っていたが、それと同時に、バーへ帰りたがった理由にも理解を示していた。
「だいじょうぶ。誰にも言わないから」と言い残し、自宅へ痛み止めの薬をとりにいった者が、二十分ほどして帰ってきた。その若い女性は、幼児向けの小さな牛乳を絵美に渡し、他のバーの客とは距離を置いていた。状況が飲み込めないだろうに、そんなことにはまったく関心がないかのようだった。
 急に電話の相手が返事をしなくなり、通信が切れた。
誠司にはどれほど時間がたったかわからなかった。誠司は何とかして外で話している絵美を見ようとした。いつの間にか、そこに後続車の面々が帰っていた。
 その男が誠司の前に座ったとき、絵美の姿はなかった。
 その男は「ちゃんと治療を受けているのでどうか驚かないでください」と前置きをすると、井坂が車にはねられた事実を告げ、そのときの状況を順を追って説明した。「話し合いに応じると見せかけて突っ込んできたんです」車内にいた者も、車を降りていた者も、突然SUVのアクセルが踏み込まれてからの一部始終を見ていた。あの状況で生きているのが不思議だと口々に言ったが、誠司はまだ何も言えなかった。相田千佳は、そこからさらに数百メートル離れた大通りのガードレールで、車を大破させていた。その道路の先は踏切だった。
「まわりに子供がいてよけられなくなったところを。でも、さっきも言いましたが、ちゃんと意識があって、会話もできるということなので。ただ、しばらくは帰れないだろうと」
「帰れないとは? ひどいのか? 入院か? 手術か?」
「まあ、そんなかんじです」
 その男は救助と入れ替わりに抜け出してきたことを謝った。そこでもう一人の男が、待ちきれないみたいに割り込んできた。「相田千佳ってのもまだ生きてますよ。よほど悪運が強いんでしょうね」
 彼らは、数名の被害者を出した、次の事故現場も見ていた。交通整理が行われている交差点に、人々が殺到していた。なんならあと少し手を加えさえすれば、完全に息の根をとめられたかのような口ぶりだったが、そう簡単には死ねまい、と誠司は思った。最初から死ぬ気でいたのだ。いったいどんな影響で? いつからそんなことを考えはじめた? しばらくは法がもつ拘束力によって親が同行するだろうし、責務を果たしたあとも共に歩むしかない。少なくとも警察が自分たちの仕事を譲ることはない。それが親子だ。このすべてが現実なのだ。誠司はその名前を全力で頭から閉め出した。
「それより生きてるのか? 本当に生きてるんだな?」
「お父さん――」
 見ると、絵美がそばに立っていた。その深い悲しみの色に染まった目を見て、自分はなんて愚かなんだろうと思った。絵美もまた自身を責めているようだが、それすら元をただせば誠司がいけないのだった。その自分が、結局、こうしてたすけられて生きている。「絵美――」と誠司は言った。今の絵美の目にはもう一つの光が見え隠れしていた。抑え込んでいた感情が、今にもかなたへと羽ばたこうとしている。ただ、目をそむけたくなるような傷を負った、誠司の手をとるときには、罪の意識に押しつぶされそうになっていた。
「ごめんなさい。今お父さんがつらいのわかってて何もしてあげられない」
「いまからいくんだな」
 誠司はロープを解かれて命拾いしたとき以上の安らぎを覚え、手に力がこもった。
「子供の命を救った、そうじゃないか」
「うん。みんな大事だもの。でも、それで命を失いかけるなんて」
「婿は三枚目だ」誠司がそう言うと、店内の雰囲気がふっと華やいだ。「生きててくれてよかった。たいした男だ。かえでも助けた。私も助けた。電撃でやられて、びくともしなかった。あの女を突き飛ばして、何もかもやってのけた」
 皆が寄ってたかって絵美を安心させた。
 絵美が出かける準備をしにいくと、何人かの女性が手伝いにいった。「――忘れ物だ」誠司が言うと、ほかの者まで一緒になっておたおたした。贈られて満足してどこかの引き出しにしまいこむようなものではない。もうそんな二人だけのものではない。しかし、すぐに絵美の荷物の中から紙袋をさがし当てた。
 絵美はとりまきの声の一つ一つにきちんと返事をした。
「今つけてみろ」
「もうっ、わかってるよ。そういうことはいいから」
 それをぎゅっと体に押しつけたが、拒みはしなかった。
 やりきれない役目を果した彼らが、誠司の周りに集まっていた。絵美がふたたび着替えにいくと、「そういえば髪切ってたんだな」と誰かがつぶやいた。
 べつの男が「けっきょく心中だろ? マスターが一番優しかったせいだな」と率直な意見を述べた。ある意味、井坂本人よりも間近で目撃したといえる。その程度はどうしても言わなければ気がすまなかったのか、彼らの間に奇妙な共感がひろがった。
「息できてますよね?」誠司はおかしなことを言うなとつたえようとしたが、結局、しゃべるほうが早かった。「まだつき合いますよ」そうやって、誠司の喉から耳の後ろにかけてのあざを、飽きもせずに眺めているのだった。
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