第33話

文字数 1,352文字

「無理なときは父さんが一人でいくから送り迎えは心配するな。寝たいときは寝てればいい」
「へんなこと言わないで」
 誠司は昔二人でしたボールペン習字を思い出し、絵美がきれいな文字で書類に記入するのを懐かしく見ていた。
 部屋がすっかり息を吹き返した。そうなると四人でいるには手狭なところが気になった。子育て中の家族には、誠司が一息つくためのコーヒーのカップですら、いかにも邪魔っけだった。それどころか、すぐに保育園のあれやこれやが増えるにちがいなかった。
 おそらくここで井坂と居合わせすることは少ない。いても朝は隣室で寝ているにちがいない。絵美はどうだろう。自分たちがはじめようとしている生活を――それをとっくにはじめているわけだが、具体的に思い描けているのだろうか。
「保育園に知ってる人がいたらどうしよう。ぜったい何か言われる」
「わかっててしたことじゃなかったのか。それとも見た目のはなしをしてるのか」誠司はからかった。「バーではみんな父さんのことを知ってたよ。保育園でも親子であることを隠さなくていいからな。並んで歩こう。圧倒された子供たちがさあっと道を開けるかもしれないな。子供が元気でいてくれるのが親にとっては何よりだ」
「ふざけないで」
「いいや。ふざけてなんかいない」
 誠司は頑として言い張った。幼い子供を抱いているのが信じられないほど殺気立っている場面が幾度もあり、どれほど心配したことか。あのころの気持ちは簡単に消せない。いまだに乳児を壁に投げつけるイメージがするほどだ。しかし、夫へ仕返しすることで子供と自分を守ったのだから、絵美がそんなことをすると思ったことは一度もない。世の中にひどい話がありすぎて、誰しもが心に傷を負っているせいだ。
 二人はかえでをつれてショッピングモールのフードコートで食事をした。誠司がちゃんぽんを、絵美がオムライスを注文し、かえでにもすこしずつ食べさせた。
「で、なんて言ってきた? 懺悔したんだろ。子供をもった女がどんなに恐ろしいか、あの夜に身をもって知ったんだな。まあ仕事の重圧も生半可なものじゃないかもしらんが、そのたびに浮気されたんじゃこっちもたまらないからな」
「ちょっと、こんなところでやめてよ。耳聞こえないの」
 絵美が人目を気にしていると、誠司はますます笑った。絵美はかえでを抱き、かばんを肩にかけた。若いお父さんのようにきびきびとはいかなくても、椅子を返しにいくのは誠司がした。絵美は黒い街灯が立っているところから目を合わせ、さきに歩き出した。
「男はあとから学ぶしかないか。男につける一番の薬は後悔かもしれないな」
 絵美が拳骨をかまえた。
「まだやるの? 言いたいことがあるんならはっきり言えば」
「褒めてるんじゃないか」
 かえでとキッズランドの遊具で遊び、屋外の庭園で何枚か写真を撮ってから、草花に囲まれたベンチで日光浴を楽しんだ。子供づれの家族がたくさんいた。母と子の二人連れがよく目についた。
「女性はある程度ふっくらしてるほうがいいものだ」
「で? どうせ母性だなんだって言い出すんでしょ」
「そうじゃない」
「なにが? 母親なら何ヵ月までは一緒にいるものだとか。頭が徴兵のレベルだよ。結局そういうことが言いたいんでしょ。ほんとにもう今日のお父さんにはうんざり」
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