第86話 『十六歳の影絵』を巡る対話篇

文字数 3,027文字

 数日前、僕は私小説である短編小説『十六歳の影絵』という作品を書いた。ありがたいことにレビューが数件届いたのだが、そのなかで、自分の備忘録としても、覚書としても「コメント欄」以外に転載しておきたかったやりとりがあったのでここに記す。なお、レビューをくれた櫟さんの文章をそのままコピペするべきか悩んだが、適宜切り取りをして僕の書いた返信が読みやすいよう整えてしまったことを付け加えておく。改変と言えなくもないので、なにかありましたらご連絡ください。
 では、どうぞ。



櫟:
『理性の眠りは怪物を生む』のモチーフは、理性と想像力の結合こそ、芸術の源泉となる……といった感じでしたよね。
 個人的には、知性と感性、物理と感覚、などに言い換えが効くと思うのですが、要は創作は本能だけに委ねていると危険、ということでしょうか?
 同時に、怪物を生み出せるのは理性が眠った時……ちょっとしたアイロニーでもありますね。



僕:
『理性の眠りは怪物を生む』が製作されたのは1799年で、ゴヤが聴力を失ったのは1792年。ご存じ、ゴヤの『黒い絵』シリーズは自身が聴力を失ったことをダイレクトに反映させたのは黒い絵を飾る別荘に「聾者の家」と名付けたことから想像できます。『黒い絵』は櫟さんが言う「物理と感覚」という置き換えが、まさに誰でもわかるかたちで当てはまるケースである、と言えますし、『ロス・カプリチョス』もまた、その問題意識を創作に込めたのではないか、というのも想像が出来ます。
ゴヤは死の近く、『俺はまだ学ぶぞ』と書かれた作品を残しており、臨終の床で「自分の手を見つめていた」ことは有名な話です。
「知性と感性」に関して言うと、いきなり話は飛びますが、イマヌエル・カントのなかではどちらもア・プリオリ(先天的)なものとして扱われます。カントの純粋理性の重要なポイントは、「主客の一致」で、「主観→客観」があるのではなく、「主観と主観がぶつかる」ところに、ア・プリオリに「通じるもの」(現象界)が存在する、ということです。つまり、感性はア・ポステリオリ(後天的)とは違うということでした。知性=理性と、カント認識論の感性と悟性の二層構造の認識(悟性の方に純粋概念と経験概念があるのでした。また、感覚器官を通じて受け取る認識能力をカントは「感性」と呼びました)、これがまずあって。でも、理性は暴走する、ともカントは言っていて、実際西洋の「近代」は「理性(ロゴス)中心主義」を企てたのですが、それは現実の歴史では第二次世界大戦で、徹底的に考えとして敗北します。結局、システムだけで社会を回すことは出来なかった。そこから、ポスト構造主義の、ツリー構造(ヒエラルキー構造、またはハイラーキー)への疑義、否定と、それに対置するものとしての(もしくは近代成熟期の当然の流れとしての)リゾーム的(機能分化的)な考え方が出てきます。
ここでは、理性が眠ったときに訪れるもの、具体的に言うと〈狂気〉というコントロール出来ないものが重要になってきます。
 ちょっとややこしいですが、「怪物を生み出せるのは理性が眠った時」と踏んだゴヤは、さすが「最後のオールド·マスター」と呼ばれるだけあって、先見の明があったのだと、僕は考えます。



櫟:
 理性だけに委ねるシステム至上主義の敗北、要するに、平たく言えば「理屈だけでは上手くいかない」ってことだと思うのですけど、社会だけでなく、まさに音楽がそうだとずっと思っていたんです。(るるせさんの主題から逸れてしまいますが)。
「怪物を生み出せるのは理性が眠った時」は、おそらくその通りなのでしょうけど、理性が眠った時に生み出せるのは怪物だけではないと思うのです。

 音楽で喩えると、理論を無視したハーモニーの方が美しいこともあります。
 そもそも、感性だけに委ねた純な和音を重ねると、ハーモニーは必ず破綻(1オクターブに24セントの濁りが必ず残る)する為に、理論的に24セントを均等に散りばめた(濁らせた)音律が平均律です。

 なので理性を無視した方が瞬間的には透き通ったハーモニーが出来るのでして、それは「怪物」というより「天使」に近いと思うのです。
 要は、どちらもアートの真髄に迫るものですよね、怪物も天使も。

 ただ、システム至上主義の敗北と同じで、理性を無視した創作は、個人的にはやがて破綻するような気がします。
 それを「敗北」とするなら、やはり理性と想像の結合はアートの源泉として大切なのかな、とも思います。
ただ、「怪物」(天使でもいいです)を生み出すのは、「理性が眠っている時」なのかもしれないですね!



僕:
 そう、「アートの神髄」なのですよね。そして櫟さんが言うとおり、「理性を無視した創作は、(個人的には)やがて破綻する」のは確かだと思います。呼び出したものが「天使」、つまり「聖性」のものであっても破綻すると思います。どういうことかというと例えば(櫟さんの領域なので素人考えで書いてしまって申し訳ないのですが、と断りつつ進めます、そして話は「外れて」しまいますが)、教会全体を揺らすパイプオルガンのもとで賛美歌が歌われて、そこで音楽で「法悦」に至ったひとがいたとして、それが(あり得ないけど)「その状態」が一生続いたと仮定したらそのひとは「こっちの世界の外」に行ってしまうと思うのです。作り手も同じような意味合いに近い(けど自身がつくるという意味合いでは「遠く」ですが)で、やはり(言葉はわるいですが)こころが壊れてしまう、でも、それゆえに、それが「瞬間」訪れる、アートの聖性の「一端に触れる」ことが……ひとが追い求めてしまうものだとも思います。インスピレーションが降りてくる、っていうのも、インスピレーションを日本語訳すればなんとなく感じとしてはそういうことかな、と僕は思います。

「理性と想像の結合はアートの源泉として大切」だと、僕も思います。「理性と想像の結合」、これを哲学で『異化効果』と呼ぶものに近しいと思います。また、もしかしたら櫟さんのニュアンスに近いものはというと、ヘーゲルの『アウフヘーベン』に近いかもしれない。話を「言語」に戻すと、基本的には自分の「引き出し」以上のものが出ないのが理性に属するもので、でも、それじゃアートにならない。想像力という、よく「翼」に例えられるものがないと、やっぱりアートには届かない。逆説になりますが人間が人間である以上、想像力がない状態はない(無意識の想像力だって強い力を持っているから)ので、そこは技巧ではなくアルカイックであってもこころを打つ作品はつくる可能性が(極端に言えば誰にだって)ある、と。で、方法のロジックとしては、それは「結合」、つまり『異化効果』によって「俗」が、「転化」してアートに届くのだと、個人的には思っています。

 なんか「ふわっとした話」になっちゃってすみません。

「言語」の話と、その理性側としての戦略は、哲学の話よりはルチアーノ・ベリオを引き合いに出せばよかったかな、と思いましたが、名前出しただけで通じると思うので省略します。




 終わりに:僕はこの文章でもだいぶ用語の混乱があるように自分でも思う。どこらへんの用語で揃えるか悩んだが、僕なりの言葉で、という選択肢を採った。故に、不備や誤謬がどこかに所属する研究者が書いた文章と比べたら酷いくらいあると思われるが、そこはご容赦ください。
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