第49話 丸の内莉桜は失わない【第五話】

文字数 2,502文字

「莉桜ちゃんも環八雲研究会の同人になろう! あたしが許可する!」わたしは首を左右に振って、スケッチブックに、
「わたしがひとさまにお見せできる作品なんてありません」と書いた。
「まあ、日常系のお約束だから、さ」
酔っ払いらしい息を吐いて、多々良さんはわたしの背中を叩いた。
うー。さっき、このひとわたしの首をかき切ろうとしてたから、ちょっと怖いよー。と思っていたがそんな感情は無視され、話はとんとんと進む。
でも、なんだか楽しい気分になって、その日はしばらく古本屋で時間をつぶした。一時間くらい経った頃、部屋にわたしは帰る。
帰宅途中で思い出す。
ああ、バロウズと柴犬の話をするのを忘れた!
アパートの近くに来た時に、飛び跳ねながら、心の中でつぶやいた。
とにもかくにも。
わたしは、自分の部屋の鍵を開ける。


☆☆☆


鍵を開けて部屋に入って、立ち尽くす。
瞳孔が開くほど、凝視する。
なぜなら。
いなかったから。
いなかったのだ、誰も。この部屋に。
いる、いない、じゃなく。
いなかった。
わたしと、もうひとりいるはずの人物、詩乃ちゃんが。
詩乃ちゃんがその痕跡を残さず、部屋からいなくなっていた。
痕跡を残さない。
つまり、詩乃ちゃんの服も、日用雑貨も、読んでた雑誌も、趣味で集めていたぬいぐるみも全部。全部がなくなっていた。
なくなっていた、というよりも、最初からなかったかのように、というのが正しくて。詩乃ちゃんの生活臭すら感じない。
飛ぶ鳥があとを濁さないのではなく、最初からこの部屋に住んでいなかった、というようにして、いないのだ。いなかったのだ。
わたしは自分の部屋を見つめて、ずっとぼーっと立っていた。意識を失いそうで失わない、長い長い沈黙のあと、わたしは涙を流した。
その部屋はこぎれいで、引っ越してきたばかりの部屋そのものだった。
手に持っていたバッグをフローリングに落とす。
音が部屋に響いた。
それをきっかけに耳を澄ますと、部屋の外からノイズが聞こえてきた。
ひとの声。
わたしをさげすむ、見下した言葉の羅列。
耳をふさいでも聞こえてくる。
「おまえごときの考えることなんて、すべてお見通しなんだよ、低レベル」うずくまる。耳をふさぎながら。
それでも聞こえてくるこれはノイズ、雑音だ。心をかき乱す、雑音。
頭の中がぐるぐる回る。
お酒を飲み過ぎた時みたいに。
止まらない、死のメリーゴーランド。
そんなイメージが想起され、わたしはノイズだらけのBGMの中で、馬車に乗り込む。馬車はさび付いていて、回れば回るほど、三百六十度全体から嘲笑を受ける。
気が遠のいて、わたしは布団も敷かずに、部屋の隅っこの方で眠りに就く。時間はまだ夕方の六時だった。
この部屋に詩乃ちゃんが住んでいたと証明できる人間は誰もいない。
元が、茨城から逃げるようにやってきた高井戸だ。知っていてもそれは焼却場の煙突さまだけだろう。この町のシンボル、煙突さま。
わたしは三日三晩、うなされ続けた。
詩乃ちゃんがつくったはずの大量の作り置きカレーすら存在しなかった。
わたしは自らキッチンに立ち、ごはんをつくって食べた。冷蔵庫には、わたしが買った分だけの食料が残されていた。なので、三日間、外に出なかった。
そして四日目。わたしは実家から送金がないか調べるために、銀行に行く。
昼間の大通りは、ノイズで満ちていた。
横断歩道の赤信号。
その赤色が、わたしに死ねとささやいてくる。横断歩道のしましまの渡り道も、白い線からはみ出したら死ぬような錯覚を起こす。
鴉はわたしを監視して鳴いている。
通行人や道路上の車のドライバーはひそひそとわたしの秘密を漏らしまくっている。散々だった。
銀行に着いたとき、わたしは冷房の中で気分を落ち着かせようと試みたが、警備員の視線が邪魔で、息が上がるばかり。
どうにか送金を確認してATMからお金を下ろすと、わたしはそそくさと建物の外に出たのだった。スモーク・スクリーン、という言葉がある。海軍の戦いでの水の弾幕のことだ。そこからわかるように、スクリーンとは『遮蔽物』を意味する。遮蔽物というのだから、その幕の奥に、なにかが隠れている。
だが、まずはスクリーンの映像を呼び出さなくちゃ、始まらないのだ。
なにが始まらないって。
そりゃ、治療だ。
わたしは電極冠をかぶせられて、精神透視実験を受けていた。
高井戸中央精神病院。
声が出ないわたしが、声が出るようになるための手段として、精神科の診療を受けているのが、高井戸中央精神病院だ。
送金されたお金を、病院代につぎ込む。
わたしはここで、電極冠から流れる映像がスクリーンに映し出されるのを、自分で見る、ということをやらされていた。医者の解析も受ける。これが、精神透視。スクリーンに映ったものを解析されて、患者の恐れているもの、封じてしまったもの、そして欲望をのぞき見る。自分でも意識させる。ぞっとする話だが、この技術は確かなものらしい。
無意識にわたしが押しやってしまったものが見つかって、自分自身で認識できるようになれば、声が出るようになる確率は高いらしい。
眉唾物だ、とわたしは思っている。
だが、それでもしも声が出るようになるなら、それだって受け入れる。
わたしは冠から、電極を流される。流されたあと、わたしがシナプスの微弱な電気信号をスクリーンに送る。
スクリーンに映し出されたのは、詩乃ちゃんの姿だった。
「これは誰ですか」
白衣を着た医者が、わたしに訪ねる。
わたしは筆を執る。
ルームシェアの相手で、今は行方不明だ、と書く。
「このグロテスクな怪物が、丸の内さんのルームシェアの相手?」わっはっは、と医者は笑った。
「失礼。丸の内さん。あなたの公式な記録には、ルームシェアをしている人物とやらはいませんよ。あなたは高井戸に来てから半月、ずっと一人暮らしです。すみませんが、患者の個人情報は業務上必要なので、知っているのです」グロテスクな化け物?
「あなたは欲望を隠している。それはこの怪物を見るに、極度な攻撃性のある欲望だ。死の欲動、と言い換えてもいいでしょう」わたしは泣き出してしまう。
すると、今日はそこで診療が終わりとなった。
詩乃ちゃんは、最初からいなかった?
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