第29話 フォークロアコレクト【序】

文字数 3,719文字

 都内。夜八時。蒸し暑い中、わたしはひーひー言いながらハンカチで額を拭く。服に制汗スプレーを吹きつけつつここ〈暗闇坂〉のアスファルトを上る。夜も暑い。熱帯夜。
 暗闇坂。わたしは知っているのだ。ここはこの国の中心点である〈(うろ)〉で、〈虚数空間〉に繋がっているということを。
 坂の真ん中、街灯に照らされる中で、足を引きずった老婆と擦れ違う。いや、擦れ違ったと思ったら、わたしの肩を掴んだ。
 わたしは振り向いて、
「離して。夜が明けてしまう」
 と、台詞のように口にする。
 老婆はにやりと笑い、
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」
 と言い、それから、
「創世記32章、(しか)して足を引きずるわたしと神の役割が反対じゃが、許そう。そもそもが主様(ぬしさま)がこの、今回の合い言葉の発案者じゃったからのぉ。なぁ、葛葉りあむ?」
 と、わたしの名前をフルネームで呼び、そしてけらけら笑った。
 心臓に悪いわ、こんなの。だって、このお婆ちゃん、怖そうな顔をしているのだもの。それで秘密の掛け合いに合い言葉。
 うーむ、とわたしが唸っていると、天地が反転した。ぎゃ、と叫び、わたしはスカートを押さえる。天地が反転したので、夜空に落下していく。
 きらめく星々に近づいていく、風を切る体感。目を丸くして、それからどうしていいかわからなくなって目を閉じると、わたしは大きな図書館のような建築物の中にへたり込んでいた。
 その巨大な図書館は中央に巨大な換気孔をもつ閲覧室の積み重ねでできている。閲覧室は上下に際限なく同じ部屋が続いており、閲覧室の構成は全て同じなのを、わたしは知っている。入ったのは初めてだけど、これは〈バベルの図書館〉そのものだ。ボルへスが夢想した、最強の図書館の、その建築物の中にそっくりなのだわ。
「ようこそ、〈暗闇坂倶楽部タルタロス〉へ。葛葉りあむ?」
 なんで揃いも揃ってわたしを呼ぶとき疑問形なのかしら。
「よくたどり着けたわね」
 閲覧室のカウンターでティーカップから茶をすすっているのは。
折口(おりぐち)のえる! あんたねぇ! もうちょっと客人をいたわる気はないわけ?」
「ないわ」
「くっ! ストレートに言われるとぐぅの音も出ないわ」
「ぐぅ」
「殺すわよ!」
「あらやだ、怖い」
「怖かったのはわたしの方よ! ここがおかしな空間だ、って聞いて知ってはいたけど、本当におかしいじゃない! ここどこ?」
「はぁ。要するに、今置かれている環境が信じられない、と」
「あったりまえよ! タルタロスって、本当にここ、奈落(タルタロス)なんじゃないの?」
「そうよ。〈噂〉だったのでしょ?」
「くっ!」
「ぐぅ」
「もう! 茶化さないで!」
「お茶はもう、いただいているわ」
「のえる! 学校にいるときと変わらず澄ましているんじゃないわよー!」
「あら、〈あなたとわたしが会ったことなんてあったかしら〉? ふぅ、うるさいわね、静かにできないの、りあむ。ここ、図書館よ」
「図書館じゃなくて、〈暗闇坂倶楽部タルタロス〉でしょ!」
「そうよ。わたしたち暗闇坂家の一族が運営する、〈少女蒐集〉のための施設……の、施設のひとつよ」
 へたり込んでいたわたしは、ぴょん、と軽く飛んで立ち上がる。
「あのね、わたしは、朝起きたらいきなり瞳が〈オッドアイ〉になっていてびっくりしていたところに、それをどうにかしてくれるって言うから〈噂〉の〈ここ〉に来たの! 手順を踏んで、ね」
「ご苦労様」
「のえる、あんたねぇ。澄ましてないでわたしのオッドアイをどうにかしなさいよ! 恥ずかしいじゃない、カラーコンタクトレンズを入れてる中二病みたいで」
「あら。格好良いじゃない」
「良くないから! もうそんなの流行ってないから」
「リバイバルさせないさいな、葛葉りあむ、あなたが!」
「嫌だしできないわよ、そんなの! 無理よ」
「あきらめるには早いわ! まずは始めることからよ! やってみなくちゃわからない!」
「って、違う! そういうことじゃない! 論点がズレてるから! 左右で瞳の色が非対称になっちゃったの! それをオッドアイって言うのよ、わかるかしら?」
「説明、お疲れさま。帰っていいわよ」
「帰らんわぁ!」
「ああ、もう、うるさい。で、なによ?」
「え、なに? そこから? だから、わたしのオッドアイをどうにかしてくれるって言うから来たんでしょうが! 暗闇坂家なんていう一族と関わったら録なことにならないのは〈噂〉で知っていたけど!」
「え? わたしたち、友達じゃないの?」
「ああ、もう! からかうのやめてね! お願いだから!」
「仕方ないわねぇ」
 ティーカップをソーサーに戻す折口のえる。
 はぁ、とため息をするわたし。これ、大丈夫なのかしら。


 




 暗闇坂倶楽部タルタロスの〈司書〉・折口のえるは言う。
「あなたはオッドアイで〈イントロスコピー〉の一種を手に入れたのよ」
「は? いんとろ…なんだって? 意味わかんないわよ」
「イントロスコピー。透視能力」
「は? なにも透けて見えないわよ。透視能力って、透けて見える、ってことでしょ」
「〈見えないものが見える〉ようになったのよ、あなた。その魔眼で」
「なに言っちゃってんのよ、のえる。あんた気でも違っているの?」
「だって、見えないものが見えるようじゃないと、この〈暗闇坂倶楽部タルタロス〉には入れなかったわ」
「なにそれ。ギャグ?」
「ここは〈虚数空間〉なの。〈虚数〉が見える葛葉りあむって、なにものかしらね」
「わ、わたしはわたしよ! 葛葉りあむ。暗闇坂女子高等学校の一年生」
「……まあ、いいわ。あなたはこれからは〈見えないものが見える〉人生を送るわ」
「ちょっと、気味が悪いこと、言わないでよね」
「スピノザは、こう言う。『神にまつわる事柄は、たとえ隠されていても、その被造物である人間たちには世界の様々な根拠から知性を通じて知られているものだ。神の徳も、永遠にわたるその神々しさも、そのようにして知られる。従って彼らに逃げ道は残されていない』と、ね」
「は? はぁ」
「それは、〈知識に触れることは、神に触れることと同じことで、その神の知性に触れる方法は、世界の万物に様々なかたちであって、いろんなところでアクセスできるようになっている〉という話で」
「で?」
「世界はそもそも神に満たされている、とするのがスピノザの汎神論。その神へ〈アクセス〉するための、ある種の〈通路〉が可視化されて見えるようになった。まあ、スピノザが言いたいのは〈すべて〉が神に〈包まれている〉ことと、すべては神の〈顕現〉だって話だから、この場合と、ちょっと違うけどね。でも、〈強い磁場を持った通路〉へのアクセスが、今後のあなたにはできるようになったのは事実」
一拍おいてから、のえるはわたしに真剣なまなざしで言う。
「そこで。あなたには〈少女蒐集〉をお願いしたいの」
「なによ、その一部の団体からお叱りを受けそうなネーミングのそれは」
「〈噂〉……言い換えれば〈フォークロア〉は大抵〈少女の形〉をしているの。あなたには見えるはずよ」
「なにが?」
「まず、倶楽部タルタロスの司書だ、というわたしが」
「はい?」
「〈奈落の図書館〉という〈フォークロア〉に出てくるのがこのわたし。あなたはここの場所のことを〈知っていた〉けど、入れるようになったのはその〈オッドアイ〉で〈少女蒐集家〉としての資格を得たからよ」
「折口のえる。あんたって」
「〈異形の少女〉。都市伝説(フォークロア)の申し子」
 それからのえるは、「フォークロアもまた、〈現代の神話〉と呼べるわ」と、肩を揺らして笑った。
「さて、始めましょう」
「なにを?」
少女蒐集(フォークロアコレクト)の旅を」
 そう、わたしは折口のえるを知っていたけど、同時に知らなかったのだ。現実では。〈噂〉でしか、知らなかった、ような気がする。
 強い風が館内に吹く。
 風が吹くと〈舞台〉の〈暗転〉が起こった。

 真っ暗闇から覚める。
 わたしは、最前にいた暗闇坂のアスファルトの上に立っていた。
 倶楽部タルタロスなんて建物は、最初から建っていなかったかのように。
 それに、折口のえるが〈奈落の司書〉だ、という〈噂〉を知り、オッドアイになってから相談した〈そのときの前まで〉に、わたしは果たして折口のえるという同級生を見かけたことがあっただろうか、疑問が生まれる。
 友達だった?
 嘘の記憶だったのかもしれない。
 それ自体が虚構で。
 それはフォークロアという現代の神話で。
 わたしは〈少女蒐集家(フォークロアコレクター)〉になるしかなくて。

 どこからわたしの日常は非日常と溶け合っていたのだろう。

 これは神なき現代の神のお話。
 折口のえるの言葉を敷延して言うのならば、結局ひとは神へと続く〈通路〉を作り出してしまう。
 そして、その領域にわたしの瞳が〈触れる〉ことができるのならば。
 この、現代の神話をこの目で、とくと確かめよう、なんてちょっと思った。中二病になっちゃったのかしら。
「のえる、また、会おう」
 わたしは夜空に向けてそう呟くと、坂を降りてそそくさと大通りに向けて歩いていく。
 きっとこれからは、世界が違って見える気がする。
 山もオチも意味もない、これが、わたしとのえるの物語の始まりだったのだから、不思議なものだ。



(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み