第45話 丸の内莉桜は失わない【第一話】

文字数 1,593文字

ルームシェアをしている紫延詩乃(しのべしの)ちゃんには、わたしは感謝してもしたりない。
わたしはしゃべれない。言葉を発せないのだ。元からじゃない。きっかけがあって、しゃべれなくなった。
だから、もしもわたしが詩乃ちゃんと出会うことがなかったのならば、わたしは生きていけなかっただろう。
それはもちろん、心の支えという意味も込めて。
「莉桜。お昼の用意できたよー」
笑顔の詩乃ちゃんは、昼食をつくって、テーブルに持ってきた。
「なに? 考え事? ふむふむ。わからん。食え食え。食って悩みは吹っ飛ばしちゃえ」わたしは丸の内莉桜(まるのうちりお)。二十四歳の女の子だ。そして彼女、紫延詩乃ちゃんは二十六歳。二つ違いの年齢だ。
二人はここ、高井戸に部屋を借りて、同居している。
田舎を出る前に、わたしは声を失っていて、環境を変えた方がいいという医者の助言もあって、遠く茨城の地を離れ、ここに住むことになった。二部屋しかない部屋だけど、ここで充分だ。
「むっしっし。タコさんウィンナーつくったのよさ。食べてみぃ」
爪楊枝で刺したウィンナーをわたしの口元に運ぶ詩乃ちゃん。いたずらっ子の笑みを浮かべている。なんだろうと思って口をあーんと開けて食べてみると、そこには辛子が大量に詰め込まれていた。
むせるわたしに詩乃は、
「辛子がだめなんて、莉桜はおこちゃまでちゅねー」と、口をとがらせておどけてみせる。
わたしにはそれに笑い、詩乃ちゃんもまた笑った。
もう九月の半ば。高井戸に来て半月になる。
わたしは、手話ができないし、詩乃ちゃんも手話を学んでいない。今のところ、そう、詩乃ちゃんがいる限り、わたしは手話は必要ないと思っている。重荷になっているんだろうけど、甘えさせてほしかったし、実際にこの境遇に甘えているのがわたしだ。
この関係が、長く長く続きますように。祈ることしかできないけれど。
杉並区高井戸。ここが、わたしたちの住む町だ。ゴミ焼却場の煙突がシンボルマークの、穏やかな住宅地である。
井の頭線高井戸駅が最寄り駅。世田谷にも近い。
わたしたちはこの町を選び、生活を始めた。
九月になってすぐに茨城から引っ越してきたのだが、まだまだ不安がいっぱいだ。
特に、声の出ないわたしにとっては、人生最大の冒険。
でも、詩乃ちゃんもきっと不安でいっぱいなんだろうな。
そうは思うけど、不安かどうかを確認するのが恥ずかしい。わたしの場合、スケッチブックを使った筆談になるからだ。ある日、わたしが環状八号線を一人で散歩していると、柴犬と遭遇した。柴犬は首輪をつけてはいるが、野放しになっている。
大型犬なので立ちすくんでいると、柴犬は一度物陰に移動し、それから歩道の真ん中に戻ってきた。柴犬は、一冊の本を口にくわえていた。
本のタイトルは『裸のランチ』。確か、ウィリアム・バロウズの著作だ。
柴犬はしゃがむと本を口から離し、しばらく本を前足で引っ掻きながら遊んでいた。
わたしはその様子を、じっと見る。
自動車のクラクションが近くで鳴った。
それに飛び上がるように反応した柴犬は、『裸のランチ』を地面に起き、一声「ばう」と吠えてから、走ってどこかへ行ってしまった。
わたしは地面に置かれた本を拾う。
この通りには、古本屋さんがある。この『裸のランチ』は文庫本。
もしかしてあの柴犬が持ってきちゃったのかな。棚から丁寧に取り出したりなんかして。棚から犬が本を取り出す姿を想像すると、笑いがこみ上げる。
バロウズのこの文庫本には、さっきの柴犬の唾液や歯形がついていたが、わたしは本を持ち帰り、読んでみることにした。
読書とは遠ざかっていたわたしだけど、もう一度、本に触れてみるのもいい。近くには古本屋もあるし。
その柴犬との出会いがあってから、わたしは高校生以来、始めてちゃんと読書した。
詩乃に柴犬のエピソードを書いて教えたら、
「うーん。文字で書かれると紙芝居だなぁ、まるで」と、腕を組み首をかしげるのだった。
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