第84話 南ノ三奈乃さんへの応答:成瀬川るるせ作品はライトノベルか

文字数 2,622文字

*以下の文章はNOVEL DAYSの作家、南ノ三奈乃さんとのやりとりの、僕の応答部分を記す、その全文である。本人に掲載許可は取ってある。



 南ノさん、お読みいただき、ありがとうございます。そうです、黒木あるじ先生の講評でマイクを持ってしゃべっているのは僕の写真です。

>講評、とても興味深かったですけど、講座の先生たちがるるせさんの作品をライトノベルとみなしているところに、「へー」と思ってしまいました。私は今まで、るるせさんの作品をライトノベルと思ったことはなかったので……。広義では「ライトノベル」に分類されるのでしょうか? この点については、るるせさんご本人はどう思われたのかなあ、とちょっと気になりました。

 これに答えようと思います。
 僕の作品は「ライトノベルか?」。
 この記事ではカットされているのですが、実話怪談作家さんの講義と言うことで、僕が提出した『庚申御遊の宴』は、ハヤカワ文庫JAから出版している『裏世界ピクニック』という作品を参考にしている、と講師の黒木あるじ先生に説明しました。記事後半のあるじ先生の「くねくねが出てこようが八尺様が出てこようが」は、『裏世界ピクニック』に出てくるネットロア(ネットで噂される都市伝説=ネットロア)のキャラクターのことで、あるじ先生も、本来は民俗学系のひとなのでフォークロアを扱う『裏世界ピクニック』は読んでいる、とのことで、その前提があり、この話題は進みました(コピペすると『裏世界ピクニック』は、「ネット上で実話怪談として語られる存在が出現する、この現実と隣り合わせで謎だらけの<裏世界>。研究とお金稼ぎ、そして大切な人を捜すため、鳥子と空魚は非日常へと足を踏み入れる。女子ふたり怪異探検サバイバル!」……とあります)。重要な点ですが、『裏世界ピクニック』はライトノベルレーベルではなく、ガチなSFレーベルでもあるハヤカワ文庫から出版されています。
 また、これも記事から抜けていますが、「成瀬川さんの作品を読むと京極夏彦、西尾維新、宮澤伊織(これが裏世界ピクニックの作者)の影響を色濃く受けているのがわかる」と言われましたが、宮澤が元ライトノベルレーベルの作家なのを除くと、京極も西尾もラノベ作家ではありません。が、これは留保付きで、であります。京極の担当だったメフィストの編集者は太田克史と言い、西尾維新、舞城王太郎などをデビューさせ、その後、彼らを連れて雑誌『ファウスト』を創刊させ、東浩紀をブレーンに据えます。東は『ゲーム的リアリズムの誕生』を上梓した頃で、『ファウスト』はその線上での執筆陣でした。
『ゲーム的リアリズムの誕生』のキャプションをコピペすると、「話題を呼んだ前作『動物化するポストモダン』より5年半の待望の続編です。本書では、前作の問題意識(オタクの消費行動を分析することで現代社会を読み解く)を引き継ぎつつ、さらに『涼宮ハルヒ』シリーズなどのライトノベル、『ひぐらしのなく頃に』などのゲーム、舞城王太郎の小説などを読解することを通じて、日本の物語(文学)の行方について解いていきます。明治以降の『自然主義的リアリズム』、大塚英志の『まんが・アニメ的リアリズム』に対して『ゲーム的リアリズム』とは何か?」という文芸批評です。
 京極や西尾の作品や作家性は大塚、または東の提唱する線上の作家だと考えていい。
 話を戻すと、南ノさんの「広義では(成瀬川るるせの作品は)ライトノベルに分類されるのでしょうか」に関して言うと、前述の東浩紀の提唱する「ゲーム的リアリズム」と、大塚英志の提唱する「まんが・アニメ的リアリズム」(これは講談社現代新書『キャラクター小説の作り方』で提示されるものです)も、講師陣は「ライトノベル」という認識での発言だと思われます、たぶん。
 もちろん僕は自分の作品をライトノベルだとは思わないのですが、実はライトノベルには「定義が存在しない」、あっても「ライトノベルのレーベルから発売したのがライトノベルである」というトートロジーが成立するくらいで、それで言うと京極も西尾も、一般文芸レーベルである講談社文庫から(文庫化は)発売するので、定義上はライトノベルではなく、ただし大塚や東の両氏は京極や西尾も念頭に置いていると思われるので、それに影響関係があると説明されたのだから僕の作品もその意味ではライトノベルではないはずですが、ボーダーラインだとは思います。
 これが、僕の見解です。なお、その後太田は星海社という出版社を立ち上げ、その座談会で僕の『密室灯籠』が取り上げられたときに、「ライトノベル風の文体である」という評を受けたことも付け加えます。
(*改行の多い文体にしたので、それを指している部分もあると思われます。あかほりさとるは「ライトノベルの改行が多い文体はおれが最初だった。ラノベ文体をつくったのはおれだ」という旨の発言しています。あかほりの担当編集者さんと昔、知り合いでした。)
 南ノさん、ありがとうございます。


付記:ライト文芸、というのが一般文芸レーベルなどで出版されて久しいですが、これは大塚の前掲書に倣って呼ぶと『キャラクター小説』となります。伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』という評論では、従来の文芸コンテンツでいう登場人物に対置して「キャラ」と呼んでいます。椹木野衣の評論で言うと「キャラ立ち」しているもの、と言い換えることが出来ます。伊藤の前掲書の議論は、「血を流せる」主体と「血を流せない」主体を対立軸にしましたが、大塚はそれを踏まえ、「キャラクターも血を流すことが出来る」ことを「まんが・アニメ的リアリズム」の骨子としています(だから「リアリズム」なのです)。また、西尾維新は自分の創作に対して対談本で「もしストーリーがなかったとしてもキャラクターが自律して動く」ように書く、という内容を話しており、僕も同様にキャラが自律して動けるくらいには作り込むことが多いです。一般文芸の出版社のレーベルで「キャラ文芸はもう古い」ということを論じられることがありますが、「自然主義文学に戻れ」という縒り戻しがあるのは、フランスのアンチ・ロマンが日本に入って来てフリークス化して(戯画化=キャラクター化した)私小説になったというのと、自然主義とロマン主義の対立軸などなど、古い新しいよりも大局を観れば派閥や棲み分けの問題に収束すると思われます。
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