第88話 成瀬川るるせによる現代短歌及び日本語文体論

文字数 3,172文字

今年の山形小説家・ライター講座懇親会の二次会でのこと。

 以下の文章は、今年一月に山形小説家・ライター講座に参加して、懇親会の二次会で僕と鷲羽大介先生がしていたトークを聴いていた事務局の方が、あとで僕に「あのとき、どんな内容を話していましたっけ」と送ってくれたので、その返答と僕の考察を書いたメールを適宜、改変してここに掲載するものだ。
 と、いうのも、今年の七月に歌人の穂村弘先生が来て、山形小説家・ライター講座の講師をするから、短歌に関する僕と鷲羽先生のトークを参考のため、事務局の方が思い出したかった、という経緯がある。
 ことの発端は、ここNOVEL DAYSに書いた僕の作品『修羅街挽歌』に書いてある通り、僕は去年、山口県の中原中也記念館へ行ってきて、その関係で中原中也記念館を僕は今もたまにチェックしており、その記念館主催で歌人の穂村弘先生が講演会を開いたことを知っていたことである。
 僕は穂村先生の歌集、特に『手紙魔まみ』が好きで、事務局の方も同じく同書も大好きだったようで、そこから話題が広がった。
 いや、重要なのは今年の七月、オンラインでも参加可能なかたちで、穂村弘先生が短歌講座を山形小説家・ライター講座でする、ということだ! 興味のある方は、ぜひ参加されたし!
 僕は今、職場がゴタゴタしているので参加出来るかは謎で、参加出来ないと想いが伝えられないので、先手を打って「ラブ」を届けたのがこの文章、ということでもあるのだ。
 前置きが長くなった。では、どうぞ。







 返信ありがとうございます、成瀬川るるせです。鷲羽大介先生と話した内容と、拙筆ながらそこから僕の考察を加えて、語りたいと思います。

 山口県の中原中也記念館の企画で、山口市湯田温泉で穂村弘先生が講演会をするとともに、ほかの方がワークショップで『一句つくらないと出られない部屋』という名称で短歌教室をやったのです。
 このワークショップタイトルは、二次創作の漫画や小説で『〜〜しないと出られない部屋』というタイトル、または内容の作品が流行ったことがあって、そこから来ている、という話を僕がしたのです。で、これはおおもとの元ネタは(誰が考案したかはすでにわからないほどなのですが)『セックスしないと出られない部屋』というネタがあって……つまりこのネタを〈お題〉として使って、それをいろんな作品の二次創作でみんなそれぞれ考えてつくって、一大ジャンルを形成した、ということなのですね。
で、鷲羽先生は、そもそもなんでこの『セックスしないと出られない部屋』というネタがとても流行したか、というのは、これが〈語呂が良かった〉からだ、という分析をしたのですね。
 具体的に「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺セックスしないと出られない部屋」とか、「古池や蛙飛びこむ水の音セックスしないと出られない部屋」とか、下の句(文字通り〈下ネタ〉ですね!!)をなんでも『セックスしないと出られない部屋』に変換して詠んでみて笑いを取ったのでした。
 流行る惹句、キャッチコピーは大抵〈語呂が良い〉のです。アニメ映画で『新世紀エヴァンゲリオン』ていうのがあって、ラストエピソードのキャッチコピーが「さよならすべてのエヴァンゲリオン」だったのです。これも同様に使える、と。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺さよならすべてのエヴァンゲリオン」とか「古池や蛙飛びこむ水の音さよならすべてのエヴァンゲリオン」と即興でつくって鷲羽先生は、さらに笑いを誘いました。


 ここから僕の考えを(愚考ではありますがこのままではただの笑い話に収束してしまい、わけがわからないので)述べてみたいと思います。
 日本語は、小説であってもリズムが大切です。去年の夏頃に確か、雑誌『文學界』で、村上春樹は「小説はインプロビゼーションが一番大切」とインタビューに答えていました。〈インプロビゼーション〉とは、いわゆる〈スウィング〉のことで、ウェブで検索するとインプロビゼーションは「即興。特に、即興演奏や即興演劇」と出てきますが、ジャズの即興のときに生まれる独特のリズムのうねり、要するに〈グルーヴ〉のことを、村上が指しているのがそのインタビューの文脈でわかります。
 定型詩に限らず、日本語の文章は「五七調」か「七五調」が主体です。和歌で『長歌』というものがあります。和歌の形式の一つで、 五音七音の句を三つ以上くりかえして 最後に七音でしめくくる構成の和歌を指しますね。
「五七調」か「七五調」は、繰り返すと〈うねり〉が生まれます。そのグルーヴを利用したのが長歌、ということも言えると思います。
 短歌でいう「上の句」は、五七五で、例えばここに七を足してまた五に戻るとしたら、なんだか続いていく感じがするのがわかると思います。なので「下の句」は七七で、上の句が来たあとに七七をキメると〈終止形〉に近いです。締まりが良い。逆に、だからこそ今言ったことを、フランス現代思想の言葉で言うなら脱構築する、つまり流れを違うところで区切ってリズムを変えたり、終止を感じさせない終わり方などをさせたり、口語体(または文語体でも良いですが)の極北を目指したりなどをして、定型詩なのに(定型詩という「制度」の「内部」から)「崩す」のが現代短歌の「文体」のスタンダードな「手法」だと思います。
 これは日本語文章すべてに適用可能です。なので応用として、キャッチコピーなどのコピーライティングで〈キメ〉るなら、七七か、それぞれ一文字くらいの「字余り」か「字足らず」をつくる感じが〈決まった感じ〉になります。音楽で四分の四拍子だと、八分音符が八個並ぶと一小節なので、その感覚は確認できるかと思います。
 鷲羽先生が言いたかったのは〈直感〉として『セックスしないと出られない部屋』が流行ったのは内容のネタとしての面白さだけでなく、このネーミングが「キャッチーな文章」だったこと、そしてキャッチーであるということは定型詩に組み込む「要素」を孕んでいる、ということが言えるということだったのだ、と僕はそのときにはそう理解しました。
 小説でもかなり露骨な適用の例として、筒井康隆に『ヘル』という長編小説があります。
 小説の内容は「自分を殺した奴が平然として暮らしてる。幼なじみはまだイジメを怨んでる。妻の不倫は続いてる。凄惨なリンチはとめどなく続き、逃げても逃げても追っ手はやって来る」というものですが、実はこれは「実験小説」で、確か小説が全部、七五調(五七調だったかも。今は手元になく、また、文体の説明は書誌データにないので確認できないのですが)でつくられており、長歌と同じ文体という手法だから「無限に続く」地獄感がある、という作品だった記憶があります。つまり、「長歌」の「戦略」と同じだ、ということが言えます。
 結論を言うと、鷲羽先生が語ったことは文字通りの下ネタだったのですが、そこには、日本語の文章のリズムが良い方が人口に膾炙しやすいということによる「文体」の「手法」があり、その不文律のルールが不可視なフレームとして存在している、ということが言えて、「短歌」という「形式」が「欲望するもの」とそれは近似値を取るということでした。
 また、最前述べたことを言い直すと、現代短歌はその「形式」=「制度」に揺さぶりをかけることがスタンダードな戦略であり、そこが、「現代短歌」がトラディショナル(伝統)なのにコンテンポラリー(同時代)でもある由縁である、ということなのでした。


……長々とすみません。これが、懇親会で話題にしたことと、それの僕なりの解釈でした。







 ここまでお読みいただきありがとうございました。そういうわけで、みんなも山形小説家・ライター講座で歌人の穂村弘先生の講座を受けようぜ!!
 
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