第50話 丸の内莉桜は失わない【第六話】

文字数 2,104文字

☆☆☆


通りを歩くと、建っているビルがすべてゴッホが描く糸杉に変わる。字義通り林立している、糸杉のビル群。
病院から外に出たら、風景が様変わりしていた。
もうこれは元々の病気のせいなのか、さっきの実験で悪化したのか、とにかくいらつくったらありゃしない。
全身がうねる。モーフィングする現実。たじろぎより、怒り。でもその怒りをどう表現していいか、わからない。
わたしは詩乃ちゃんがいなくなって寂しい。
寂しいのに、そういう気分にさせてくれない。
詩乃ちゃんはいないって医者は言う。
警察に届け出を出そう。
甲州街道に交番がある。そこまで、歩いていけるかな。この魔境の中。
この糸杉の林は、わたしの見る幻だってのは、理解できる。理解はできるけど、受け入れてしまったら、わたしの見るものすべてが嘘っぱちということになってしまいそうで。
出ろ、わたしの声!
ぴゅーーーー。
息が漏れた。
声は出ない。
わたしの声はやはり、出ない。
頭の中を「入院」という単語が支配する。
それだけはだめだ。
わたしの足は、交番ではなくて、あの古本屋へと向かう。
答えは出なくとも、なにかがつかめそうな気がして。
その古書店の引き戸を開けると、店長の多々良さんが腕組みをしながらこっちを向いていた。
「よく来たな」
酔ってふらふらしている。
「多々良ぁ。こういう時はかっこよく決めるんだぞ」
「ふむ。あー。あー」
「のどの調子を確かめてないで告げるんだぞ」
「わーっとるわ、七水!」
わたしは泣きそうだ。ここのひとたちは異常になってない。
多々良さんがわたしに目を合わせて、レジから扉の前のわたしに聞こえる大きさで言う。
「始まってしまったんだよ、『国境なき地下鉄』の反逆が」
「…………」
「地下鉄戦争、と言い換えてもいい。無意識を走る国境なき地下鉄が、町にあふれ出したのよ。高井戸のイド。イドとは無意識下にあるリビドーの心的源泉。わっかるかなぁ」
「茶化すな、多々良!」
「焼却炉の煙突って、要するに男根の象徴でもあんだよな。シンボルたり得るわけ」
「地下鉄も、膣内を通る男根というメタファーで可能なわけなのだぞ」
「そのフロイト的な力が、降り注いだっていうのが、今回のこの現象の正体だ。普通は正体を見極めれば、幻影は消える。が、どうやら莉桜ちゃんの中では消えないみたいだ。なぜならば、潜る必要性があるから」どこに、と訊きたかった。
が、それを察して多々良さんは応じる。
「莉桜ちゃんの深層、自分の中の地下鉄に、ね。過去の、ある一点に潜り込まなければならない。国境なき地下鉄が蒔いた種子は過去にある。種子に捕らわれてしまったのさ。種子が発芽しないうちに、切除しなくちゃならない」
「でも、そのその作業は莉桜ちゃん自身がしなきゃ、意味がないんだ」
「自分の手のひらを見てみるんだ」
わたしはうながされるまま、自分の両方の手のひらを広げ、見る。と、そこには樹木の茎が張り巡らされていた。その茎は、身体の真ん中に迫ろうとしていた。
「杉並が糸杉で覆われ、高井戸がイドと直結する。ここはもう、君の表層の世界ですら、君の過去の世界とつながってしまっているってことなんだ。町を探索してみるんだ。過去は過去として清算しなきゃ、『未来』に向けて計画を立て生きていくなんて無理なんだ。だって今の莉桜ちゃんには『今現在』がないんだからね」
一気に言われて意味がわからない、と思いつつも、ぼんやりとわかるような気もする。
わたしは、わたしを見つめて、行動を起こさないとならない。
行動の拠点は、ここだ。
環状八号線沿いの古本屋から、わたしはスタートする。
この、意味が不明な世界の中で。


☆☆☆


ららみゅうさんが、丁寧に解題しようとしてくれる。
高井戸焼却場前の広場で、ベンチに座りながら。
「そう難しい話でもないんだよ。心の奥を通っている心理を『地下鉄』だとして、その地下鉄の司令塔が反逆してしまって、君の心の『表層』にまで効果を及ぼしてしまった、というだけの話なんだ」
だがね、とららみゅうさんは言う。
「莉桜ちゃんが見ている世界とわたしたちが見ている世界は違う、なんて言う気はないよ。
確実に、現実の均衡が崩れてるのさ、まるで莉桜ちゃんがこの世界の主であるかのように」それでも、莉桜ちゃんが見ている世界の方がグロテスクな世界なんだとは思うけど、とららみゅうさんは付け足した。
しゃべっている間に、毛ガニの群れがひしめき合って、わたしとららみゅうさんの近くを包囲した。
ららみゅうさんは、思い切り毛ガニを足で踏んづけて殺していく。
「不思議に思えるかい? わたしにも見えるんだよ、この得体の知れないものが。まあ、出てきたら殺すだけだけどね。もしくは逃げるか。ここはもう莉桜ちゃんの『イド』だよ。深層心理の世界。なにかを見つけ出して、書き出せばいい。スクリーンの奥になにが見えるか、見極めるんだ」
つぶされた毛ガニにたじろぐ他の毛ガニ。ららみゅうさんは「ヒャッハー」と言いながら続々毛ガニを踏んづけていく。
わたしはららみゅうさんに、お辞儀をする。
ららみゅうさんの着流しが風に揺れた。
「行ってらっしゃい」
ららみゅうさんは手を振って、それから毛ガニ殺しに戻っていった。
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