第47話 丸の内莉桜は失わない【第三話】

文字数 2,281文字

☆☆☆


詩乃ちゃんが、わたしの手首に包帯を巻く。
わたしは静かに頷いて、スケッチブックに「ありがとう」と書く。
「えへへ……」
詩乃ちゃんは鼻をこすって、得意げにした。
頭の中が固まったままのわたしは、眠りに就けなかった。むしろ、包帯を巻いてくれたところで安心して、朝寝ということになった。
詩乃ちゃんは、今日は仕事だ。
そのルームシェアをしている彼女が部屋を出ると、わたしは眠りに落ちる。
高井戸に引っ越してきてから、眠ってばかりだ、わたし。どうにかしなくちゃな。でも、今は眠いから寝かせて。
せめて、夕方になって、詩乃ちゃんが帰ってくるまでの間は。
スーパーマーケットには欲求不満が充満している。みんな日々の疲れの中、買い物に来るからだろうか。
わたしは買い物かごを手に持って、スーパー店内で先に行く詩乃ちゃんに追いつくよう、小走りした。
「今日はカレーにしよーね」わたしは頷いた。
鼻歌交じりであたりを物色する詩乃ちゃんは気にもとめないが、手首に包帯を巻いたわたしの姿は目立っていた。いや、目立っている風に思い込んでいるだけか。
わたしが魚肉ソーセージを買いに魚肉コーナーに行くと、そこには、飄々とした足取りの女性が魚肉ソーセージをその場で食っていた。男性用の着流しを着ているので、その姿は異様に目立つ。わたしなんかこのひとと比べたら全然目立ってないや、と思った。
じっとその様子を見ているわたしに気づいた着流しの女性は、大きな袖から一冊の小冊子をわたしに差し出した。
「これ、わたしだから」
ページをめくって、自由詩のコーナー記事を指さす。
湯川ららみゅう、と書いてある。これがこのひとの名前なのだろうか。
わたしがおどおどしていると、
「いらないのかい? 困ったなぁ。君には文学のにおいがするのだけれども。欲しくはないのかい。好意は受け取っておくべきだよ」と言って、小冊子を手渡す。
「好意はともかく、ここには店員からの悪意を感じるね。おいとまさせてもらうよ。むしゃむしゃ」
魚肉ソーセージを咀嚼した湯川ららみゅうという女性はぴょこぴょこと魚肉コーナーを去っていく。
わたしも勘違いされて捕まったら嫌だから、コーナーから離れ、詩乃ちゃんのもとへ小走りで駆けていく。
小冊子『地図にない町』。もらったものの名前だ。
わたしは半袖からでた手首の包帯をもう片方の手で掴んだ。
自分は生きているのだな、と感じた。なぜだかは知らないけれど。
☆☆☆
スーパーのレジ付近で。
詩乃ちゃんは激怒していた。
「なに? さっきの女は」
その形相に、わたしは震える。でも、声は出ないし。説明をどうしよう。
「ああいう女は男女かまわずぱくりと食べて喜んでるようなタイプなの! いいかしら!あんなのと付き合っちゃ絶対だめ。丸の内莉桜には、紫延詩乃がいる! それでいいの。
二人になるためにわたしたちはここに来たの。都会の中で、二人で立てこもるために」わたしはなんども首を縦に振って、同意を意味するジェスチャーとしたが、詩乃ちゃんの怒りは収まらない。
衆目が集まる。
どうしよう。
わたしは意を決して、詩乃ちゃんに体当たりのように抱きついた。
それでも怒ってる。
わたしは抱きしめたまま、詩乃ちゃんの唇にくちづけをした。
すると詩乃ちゃんは顔を背け、
「冗談はやめて!」
と、言う。わたしはやめない。
今度はわたしは、背けたその首筋に舌を這わせる。むずがゆくなった詩乃ちゃんが顔をこちらに向けると同時に、わたしは詩乃ちゃんの唇をこじ開け、ディープキスをした。
ディープキスをしていると、次第に詩乃ちゃんの身体が弛緩してくる。
買い物かごは下ろしたまま、スーパーマーケットの中で、わたしたちは、ちょっといけないことをした。
それでも、それを咎めるひとは誰もいなかった。
なんだか、動物的な気持ちになってしまったけど、それでいいや、とわたしは開き直ったのだった。



☆☆☆


詩乃ちゃんがカレーをぐつぐつ煮込んでいる間、わたしはスーパーで魚肉ソーセージを食べていた女性のくれた小冊子を読んでいた。
湯川ららみゅう。
彼女、ららみゅうさんの自由詩が、耽美な文体で綴られているのを確認する。
どうもここ、杉並区の文芸サークルで定期発行している小冊子らしい。小冊子のタイトルは『地図にない町』。
わたしはそのタイトルのつけられた小説を、どこかで読んだことがある。
どこかの誰かたちが書いた、おそらくはあまり知られてない作品の載っている雑誌。それに『地図にない町』というタイトルはふさわしい気がした。ちなみに、文芸サークル名は『環八雲研究会』。名前のわりに、社会的な作品は、ない。フィクションの創作物がメインの小冊子だ。
ざっと目を通していると、詩乃ちゃんがキッチンからカレーを持ってきた。作業が早い。
「小説が好きだね、莉桜ちゃん」わたしはこくりと頷く。
「地図にはないよ。わたしたちの住んでいた地元のひとたちには、わたしたちの住んでいる町も、ここの所在地の地図も。頭の中には一切、ないよ」詩乃ちゃんがテーブルにカレーを置く。
「誰も知らなくていい。莉桜も、声が出せるように戻らないでいても、やっていけるんだよ、二人だけで」
詩乃ちゃんはわたしを抱きしめる。
「繭を張って、その繭の中に閉じこもっていたっていいんだよ。ここじゃ誰も咎めやしない。一緒にいよう、ずっと。二人きりで」
甘美な誘惑に目を閉じながら、わたしは自分が書くべき小説の内容を考えている。
誰も知らない物語を、夢想する。
それには、ここは最適な場所なのかもしれない。
詩乃ちゃんに押し倒されながら、わたしはなにも見ないように、目を閉じたままだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み