第52話 丸の内莉桜は失わない【第八話】

文字数 3,081文字

☆☆☆



お酒くさい……。
跳ね起きてみると、畳敷きの部屋にいた。
部屋で、みんなで雑魚寝をしていた。一升瓶を抱える多々良店長に、わたしは腕枕されていたのであった。
「…………」
夢オチ?
でも、そんなこともなさそうだった。
四六時中聞こえてくる『声』は他の雑音と一緒くたになって聞こえてきてわたしを苦しめるし、さっき柴犬と話して倒れた時にできたのであろう傷のあともある。
別にそれらは現実と夢の往来と直接の関わり合いはなさそうだが、声が聞こえてきて「苦しい」とか、できた傷が「痛い」とか、そういった身体感覚が、わたしをこれがさっきからの続きの現実であろうことを直感でわからせる。屁理屈じゃなかった。論理的でもなく、それはただの直感だった。でも、起こったこと、そして今ここにいることも全部現実だとわたしに悟らせるのだ。
もしくは、今もなお続く、これは悪夢なのだ、と。
わたしの一人語りの思考法から察せられるように、わたしはあたまがちょっと足りない。
差別用語のような気もするけど、自分でも自分は他人にはある「なにか」が欠如しているということを、常に感じて生きているのだから仕方がない。この欠如感と、思考の遅さが、わたし自身に、わたしは「足りないひと」なんだと教えてくれる。
欠如もなにも、今のわたしはしゃべれない。
それだけで、他人と違う。この場合の違うとは、社会的に劣っている、ということでもある。
わたしはひとよりも劣っている。
それはともかく、わたしのまわりには今、多々良さんと七水さんとららみゅうさんがテーブルを囲んで雑魚寝中で、わたしはそこで跳ね起きたのだった。
多々良さんに至っては説明の通り、わたしに腕枕をしていた。片手に一升瓶を持ちながら。
部屋は異界化はしていない。見た目は。普通のくつろぎスペースだ。
そしてここが古本屋の奥座敷なのをわたしは知っている。
「大丈夫。運んできたんだよ。わたしが」
寝ながら、目をつむりながら、多々良さんが言った。
「嘘つくな。運んできたのはわたしなのだぞ、多々良」
「あー、うるさい。わたしたちが、と言おうとしたんだ。言い間違い」口だけ動かして、七水さんと多々良さんは言い合っている。
わたしは部屋を見る。
壁時計は一時を指していた。夜中の一時なのだろう。大きな壁時計だ。
安心して、いいのだろうか。
詩乃ちゃんと繭の中にいたような、あの感覚と同じように、安堵してもいいのだろうか。
今はできないけど。怖いけど。
そう思った途端、くすくす笑いの声が聞こえる。
いつからこうなってしまったのだろう。
わたしの病気であろうものは一般的に、原因はひとつではなく、複数同時に過多のストレスがのしかかると発症する、と言われている。
いつからっていうのは、だからおかしい問いの立て方なのかもしれなかった。
発症した瞬間はあれども、いつからこうなったか、というのは、もう「予期されていた」としか言いようがないじゃないか。なるべくしてなってしまったから。「いつから」という言葉はまるで犯人捜しのようで、似つかわしくない。
いつからこうなったのだろう。
知らない。
気がついたら、世界が変わってた。
わたしの世界が。
「眠れ、莉桜ちゃん」
多々良さんが不意に言った。
「眠れないなら酒でも飲め。もう一度言おう。眠れ」 ……眠るしかなさそうだった。
わたしはまた身体を横たえる。
多々良さんがまた腕枕してくる……。
ぐぅ。


☆☆☆


細かいことは気にするな、それより医者にかかれ、と三人に朝、言われたので、わたしは病院へ行く。
確かに、精神透視を今すれば、違う景色がスクリーンに映し出されるかもしれない。わたしは予約日でもないのに、飛び入りで高井戸中央精神病院へ向かった。
変容してしまった町を歩いて、わたしはどうにか高井戸中央精神病院へたどり着く。
胃がおかしくなりそうだった。とにかく、町がグロテスクに変わっているのだ。
途中で自分の部屋に寄ろうとしたが、やめておいた。シャワーも着替えも必要だったが、こんな汚れた世界に、それは本当に必要なのだろうか、考える余地さえ生まれてきている。
電極冠をかぶり、精神透視が行われる。
わたしは目を閉じていた。
精神統一を図ろうとしていた。分裂する脳で。
精神内スキャニングが終わり、電極冠を外されると、わたしは備え付けのベッドにしばらく横になった。
「お疲れのようですね」医者が言う。
「今日も映っていましたよ、怪物が」
スケッチブックで「怪物って、どうして。どういうこと?」と書く。
医者は答える。
「ないんですよ、顔が。顔が、肌色のクレヨンで塗りつぶしたような具合になっていて、
……一種のモザイク処理なんでしょうかね。見たくないからなのか、それとも」いったん、間を置く。
「……それとも、そこに『特定の個人』が存在しないか、ですね。丸の内さん。あなたが進んできた人生の中で、同じようなシチュエーションが相手違いで何度も繰り返され、その『だいたいいつもこんな風』という光景が、現れているだけなのかもしれない。この透視でね」
同じようなシチュエーション……。
わたしは酩酊する。くらくらするのだ、視界が。横になりながら聞いていると、眠くなってしまう。
「お疲れのようですね。休みますか、……療養というかたちで、この病院で」わたしは頭を上げて、首を横に振る。
医者は、
「そうですか」
とだけ言って、あとを看護師に任せて、部屋を出て行った。
わたしは、今度こそ、自分の部屋へと戻る。
戻ったところで、どうにもならないのだろうけど。


☆☆☆


手元に小冊子『地図にない町』がある。
今、世界はどうなっているのだろう。
テレビすら置いてないわたしの部屋だからわからないけど、きっと世界は変容してしまったに違いない。
部屋でうずくまっていると、スマートフォンがぴろりろと音を出す。誰からか電話が来たのだ。
反射でスマホを手に取り、通話をタップする。
「元気にしてる?」
相手は、詩乃ちゃんだった。
通知も詩乃ちゃんからになっていたし、その声も、間違えようがない。そもそもしゃべれないわたしに電話をかけてくるひとはいない。
だから、詩乃ちゃんも一方的に話す。
「今、莉桜は大変な目に遭ってると思う。こんな時に立ち会うことができなくてごめん。でも、大丈夫。丸の内莉桜は失わない。なにも。なぜなら、莉桜は完璧だから。莉桜は自分がなにか欠如した人間だと思い込んでる。壁があって、乗り越えられないと思っている。生きていることに意味が見いだせないでいる。でも、大丈夫。それが完璧だよ。人間としての、完璧。つまり、人間らしい人間。それが莉桜なんだよ。……いつか話そうと思ってた。わたしのこと。莉桜はわたしと出会った時のこと、覚えてる? 思い出してみなよ。そしたらきっとわかる。うまく思い出せない時には、パソコンに保存してある、自分で書いた小説を読み返すのよ。それできっとわかる。莉桜が元気で過ごせるよう、ここから願ってる。ごめんね」
「…………」
間を置いてから、通話が切れた。沈黙と静寂が立ち現れた。
しじまが支配した。一瞬だけ。
長い長い一瞬のあと、わたしは涙を拭く。いつの間に泣いていたんだろう。
たぶん詩乃ちゃんはもう帰ってこない。
それだけが理解できた。
わたしは蛇口から水を出して、コップに入れて飲んだ。なにも食べる気がしないままだった。
わたしはどのくらい、なにも食べていないだろう。自分が壊れるのは目に見えてる。
でも、その前にしなくちゃいけないことがある。詩乃ちゃんとの出会いを思い出すこと。
そして詩乃ちゃんとの思い出を文章に残すことだ。
それさえできれば、あとは……。
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