第48話 丸の内莉桜は失わない【第四話】

文字数 1,997文字

☆☆☆


環状八号線沿いの古本屋の前に、わたしは一人でやってきた。前からここに古本屋があるのは知っていたけれど、入るのははじめてだった。バロウズを口にくわえた柴犬を目撃した、古本屋。入りづらい雰囲気はあるけれど、わたしは勇気を出して、引き戸を開ける。
ピンポーン、と音がした。開閉すると音が鳴るようになっているのだろう。
ちゃきーん。
包丁がわたしの首元に突きつけられた。突きつけてる人物を見ようにも、後ろを振り向いたら包丁が一閃しそうな状態である。
「やめろ! やめるんだぞ、多々良(たたら)! 今ならまだ戻れるんだぞ!」
わたしの真正面、店のエプロンを着けたひょろ長の女性店員がわたしの背後に向かって叫ぶ。
「動くな! 二人ともだ」
二人、というのはわたしと、目の前にいる店員の二人を指すのだろう。
「だから、多々良! そのひと、お客さん」
「うるさい! それにあたしを呼びつけすんな! 多々良じゃなくて『店長』と呼べと何度言ったらわかるんだあああああ」うひいいいいい。
めっちゃ叫んでる、わたしの背後の女のひと。
「多々良。だからもううちにはお酒なんて買う余裕はないって何度言ったら……」
「このバカ七水(ななみ)! 七水はあたしがどれだけ安酒を愛しているかわかってんでしょ! ウィスキーの一本や二本、レジからお金取って買ってくればいいのよ!」
後ろから包丁を突きつけてきてる彼女は、なんたることか、店長らしい。この店の店長なのか?
「多々良。話せばわかるんだぞ。まずは話し合いが基本なんだぞ」
「このお豆腐のーみその七水! のーみそへにゃへにゃしてんなっ! 頭を柔軟にしろとは言ってるけど、レジからお金を抜き取ることさえ許さないって、なに考えてんの? へにゃへにゃしすぎなんじゃないの? ここ、あたしの店よ!」
「ああ、もう。のーみそが堅くても柔らかすぎてへにゃへにゃでもいいんだぞ。正直言って、アルコール中毒の酒乱に飲ませる酒はないし、ここの金庫の鍵、お母様から預かってるのはわたしなんだ。わたしがだめって言ったらだめなんだぞ。あと、わたしは未成年なのにお酒買いに行ったらだめでしょ」うひいいい。
わたし、包丁突きつけられてるのに、乱暴な言葉はよして。刺されるううう。
でも、声が出ないの。
うううぅ。
「レーズンパンとウィスキー買ってこい!」まだ続けてるー。
わたしは首元を見る。包丁が小刻みに震えている。
ああ、このひと本当にアル中なんだな、と思った。
と、そこで背中の真ん中あたりに衝撃が走り、わたしは後ろのアル中店長と一緒に前方に吹き飛ばされた。
「痛ッつー」
うつぶせにわたしは倒れた。本棚にぶつかって大量にハードカバーの本が落下して、わたしの頭上に降り注いだ。包丁を持ってたアル中はわたしとは違うところに吹き飛んで、やっぱり本棚を崩して倒れている。
「ぬらりひょんさん!」
着流しを着た女性。彼女は今日も飄々として、現れた。
「おや。もしかしてぬらりひょんってわたしのことを呼んだのかい。違うね。わたしの名前は湯川ららみゅうだよ」
背中に受けた衝撃。あれは着流しの女性、湯川ららみゅうさんが、背後から蹴り技を入れた衝撃なのだった。
ららみゅうさんに蹴られて吹き飛んで、事なきを得たのだ。
いきなりで蹴りをかまして状況を打破とは。伊達にスーパーの中で、お金を払わないで魚肉ソーセージを食ってるわけじゃないわけだ。このひともまた、常識が通じないのだろう。
わたしは傷む身体をゆっくりと動かし、起き上がる。
みんなの視線がわたしに集まる。でも、わたしはしゃべれないの。
どうしよう。
とりあえずわたしは、スカートについた埃を手ではたいて落とし、それから一礼した。
そして、ほほえんでみた。
筆談で自己紹介したわたしは、古本屋のレジ奥にある座敷に通された。
「環八雲研究会の本部はここだよ」
ららみゅうさんが頭をかきながら言う。
「ったく、多々良は店長としての自覚が足りないよ」
「さっきは失敬した。ひっく」
店長さん、えーっと、多々良仁奈さん、とやらは結局お酒を飲んだのだった。
お酒はちょうどここの常連客で研究会のメンバー、湯川ららみゅうさんがスーパーから買って持ってきていたのだ。
わたしは場の雰囲気に慣れずにそわそわしている。
「なんだい、お嬢さん。コミュニケーション障害なのかい。無理矢理愛想笑いしなくてもいいのだよ。刃物突きつけられたばかりじゃないか、このバカ店長の多々良に。無理して笑っているのは見え見えだよ」わたしはうつむく。
「丸の内莉桜ちゃんか。紹介がまだだったね。そこの酔っ払いが店長の多々良。わたしはここの店員の千代田七水。よろしくね」
かわいい女性店員さんはにっこりして首を右に傾けた。
四人で、座卓を囲んでお茶を飲む。
静かな時間が流れた。
三人はわたしとの筆談が物珍しく映ったのか、いろいろ質問を投げかけてきた。
しばらく質問攻めに遭っていると、多々良さんが立ち上がり言った。
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