第53話 丸の内莉桜は失わない【第九話】

文字数 3,861文字

☆☆☆


地下鉄戦争は、不完全なものを排除するための戦争だった。始まった当初は。
戦争をはじめたそいつらは、この世界の多次元構造を利用した。
この宇宙は三次元空間プラス時間一次元の四次元でできている。
だが、実際の『世界』は十次元、ないし十一次元である、と言われている。五次元以上を想定した場合、その次元はこの四次元に『折りたたまれている』。
カーテンをひもで縛ってとじた場合、我々はただ、そのカーテンの表面をなぞって認識しているに過ぎない。が、実はカーテンの折り重なったその間隔に、閉ざされた空間がある。存在はしているが、存在は確認できない。
だが、どうだろう。その扉を開けてしまったとしたら。
少なくとも『開けてしまった人間の脳内は変容する』んじゃなかろうか。
いわゆる、ニュータイプって奴だ。アニメ風に言うならね。
その変容してしまった一人、莉桜ちゃんの周囲の『磁場』もまた、変容してしまった。
そこには完全な世界なんてなかったんだよ。
……………………。
………………。
…………。
……。
「なーんちゃって」
多々良さんは酒臭いにおいをまき散らしながら、わたしにそんなことを言った。
古本屋は、今日もほこりっぽい。その店内を、うろちょろしながらわたしに話してくれた。
どこまで信用していいのかはわからないが、今を説明するのに、とても満足いく見解に、わたしには思えた。
「こんにちわー」
頭をかきなながら飄々とららみゅうさんが店に入ってくる。
「なんだい。また馬鹿話をしてるのかい。やめときなよ、莉桜ちゃんが本気にしちゃうじゃないか」
「そんなこと言って。あんたもSF者でしょーが」
「それを言ったらうちらのサークルはみんなSF者だろうに」レジ奥で七水さんが、
「わたしは違うぞ! 断じて!」と、抗議した。
「さて。書く気にはなったかい、莉桜ちゃん」ららみゅうさんが本を物色しながら言う。
わたしは、
「書きます。反逆者だから」
と、スケッチブックに書いてみせた。
「反逆者?」
ららみゅうさんはくすくす笑った。
「大志を抱いているようだな」
多々良さんが近づいてきて、わたしの肩に腕を回してきた。
斡旋、という言葉が、わたしのパソコンの中には書いてあった。斡旋をした人物は、詩乃ちゃん、という名前だ。
だが、わたしは「詩乃という人物を見たことがない」のであった。そう、書いてある。いつも電話口から、詩乃という人物は、わたしを斡旋し、男性に会わせる。毎日、違う男性に、わたしを会わせる。それが、詩乃、という女性だった。
でも、これは小説?
書いてあることが本当である確率は低い。と、思う。
それになんだか九十年代の小説の筋書きみたいだ。そう、そういうのが小説で流行ったのはその年代。だけど、わたしは知っている。こういう世界は現に今も存在していて、それでそういうことは日常的にある。
それでわたしはおかしくなったんだろうか。
それは違う。
わたしは高校を中退してから、二十四歳になって高井戸に来るまでの間に、長いブランク、空白がある。
その間のことを思い出そうとすると、吐き気がして、脳内でその記憶が遮断される。
だけど、うすうすその内容はわかっているのだ。
なぜかというと、『声』が聞こえるから。
これ以上ないほど不細工で、グロテスクで、吐瀉物のにおいのする『声』が。
破壊の衝動は、死の欲動は、いつもそこから生まれてくるのも、わかっていた。
わたしは幻聴者だ、間違いなく。
だけど、この声は、現実だ。
他人が認識する世界と自分が体感する世界が一致していると、一体誰が言えるのだろう。
ただそれは、「言ってしまったら精神病院で一生を過ごすはめになる」という、その一点だけの問題なのだ。
つまり。この世の「秘密に触れてしまった」と、いうことだ。秘密を漏らす者には罰則を。
そうしないと、社会は回らないから。
その女は、わたしを蹂躙した。そもそも『斡旋』なんてされてたわたしが、それもわたしは女性なのに女性に『蹂躙される』なんてことがあるのだろうか。
ある、のだ。
あった、のだ。
わたしに深く傷跡を残した人間が、いた。
だが、それ以上は、直接的には認識できなかった。拒否するのだ、身体が。心が。
だからわたしは「書く」ことにした。
わたしの現実を。
わたしの現実は嘘になるから。
わたしが文学への反逆を試みようと決心したのは、それによってだった。
わたしの環八雲は、わたし自身の心を汚染し、原稿用紙に垂れ流される。


☆☆☆


「主観の世界に、根拠はなくてもいいのは確かだね。でも、いいのかい? 誰も納得しな
くても」
わたしは頷く。できた小説を環八雲研究会の面々に見せて。
とにかく、酷評を得た。自分でもひどいのはわかってる。
「莉桜ちゃん。今、わたしたちは莉桜ちゃんのイドの中にいる。しかし、肝心の『イド』、つまり莉桜ちゃんのリビドーのその深淵には、誰も触れてないし、自分でそのイドの地下に潜って、地下鉄で『その先』へ向かうことこそが、この世界を突破できる出口になるんじゃないか、と思うんだよ。自分でも勘づいているんだろう」着流しで涼しげに、ららみゅうさんが言った。
その通りだと、自分でも思う。まだ、わたしには足りない。自分の奥底を潜るスキルが。
わたしは古本屋を出て、糸杉の森の中を散策する。
いるんじゃないか、と思ったのだ。でたらめに歩けば。
環状八号線をずっと歩いて、芦花公園に達した時、だから彼女に声をかけられたのは、必然とも言えた。
彼女とは。
あの柴犬だった。
「やぁ」
しゃべらないといけない、とわたしは思った。
対話をする必要がある、と思った。
わたしは精神を集中させた。
汗だくになる。
耳鳴りがひどくなる。
ぴゅー、と息が漏れる。
もう少しだ。
ぴゅー。ぴゅー。
ぴゅー。
「あ、あ、、あな、たが『あの女』ね」声が出た。この前と同じように。
「あぁ、そうだよ。わたしがあんたから声を奪った本人さ」
二足足歩行のそいつは当然とばかりに、どうでもいい口調で答えた。
「バロウズはお気に召したかな。あんたは女性しか愛せないだろう。でも、男にも抱かれてきた。バロウズの反対で、ちょうどいいと思ったんだがね。反逆児は、いつだって倒錯者だから。いや、違うな。反逆したい奴ら、ワナビ含めて、みんなそうさ。わたしがあんたのマインドブレイカー。壊して遊んだだけの、他人。違うな。親切にもこうして会いに来てやってるんだからな」
「こ、こ、こ、国境な、き、地下鉄」
「そう。ここには国境がない。国の境がない。幻視による世界の崩壊が起こっている。他の地域とは、つじつまは合っているのだが、あんたのテリトリー内の住民は今、狂った世界で呻いてるよ。正気を失って。瘴気を出しながら」
「言葉遊び、が、聞きたいんじゃ、ない」
「欲望に素直になれよ。欲望に忠実になれば、あんたの心は救われる。保証するよ」
「誘いには、乗らない」
「去勢されちまったか。その心が。それもいいだろう。社会化した存在になれやしないのに、欲望をシャットアウトされて、ただのお人形さんになるのもまたいいだろう」
と、そこへ、スパナが飛んできた。
スパナが柴犬の後頭部に直撃する。
柴犬は前のめりに倒れそうになって、足を踏みしめて体勢を整えた。
スパナは公園の中から投げられた。
公園の茂みから、一人の酔っぱらいが現れ、一升瓶で今度は柴犬の脳天を叩いた。
割れる一升瓶。中身とガラス片が周囲にぶちまけられる。
茂みから出てきたのは多々良さんだった。
「店は七水に任せてるから大丈夫!」全然大丈夫じゃなさそうだ。
「なにをする、小娘」
「小娘だなんて、いいこと言ってくれるじゃん。わたしが何歳に見えると思う? うふ。
じゃ、本を店から盗んだ代償として、莉桜ちゃんを渡してもらいましょう。ひっく」酔ってる。まだ午前中なのに。
手に持った、壊れた一升瓶を投げ捨て、多々良さんは髪をかき上げた。
「おまえが、具現化したナイトメア、夢魔なのは明白だろ。なら、ぶっ殺すだろ。なにも問題ないだろ。都会じゃみんなそうだろ」暴論だ。
「ようするに、わたしを殺す、と」
「いえすっ」
落ちたスパナを自分で拾い上げ、攻撃態勢に入る多々良さん。
「戦闘美少女の心理に、わたしはなってるよー」ならなくていいから、それ。
構えた多々良さんと柴犬は、取っ組み合いを始める。
どちらも、攻撃がヒットしない。両者とも、相手の先を読んで行動しているため、大打撃を与えられないのだ。
少年漫画みたいな光景が繰り広げられる中、わたしは、叫んだ。
「みんな! 仲良し!」
「!」
「!」
ショッキングだったらしい。わたしが、こんなことを叫ぶのが。
でも、そうだったのだ。間違いない。
いつも横にいて、わたしを支えるひと。それが時間が経っても入れ替わり立ち替わり「いつもいた」としたら、それこそ、わたしの精神を破壊した柴犬も、わたしを同人に加えてくれた多々良さんも、同じだ。
同じ。幻想の中の詩乃ちゃんと、同じ。
医者が怪物だっていう、その人物と、柴犬
と多々良さんは同じなのだ。イコールで結ばれるのだ。
「わたしは、みんなと、仲良くしたい!」
わたしのその叫びと同時に、空中から氷の矢が何本も振ってきた。その氷の刃は、柴犬の身体の至るところを刺し貫いた。
「あ、あんたは、それで……満足、……なのか」
「うん」
「そう、なのか……」
柴犬は氷の刃で地面に突き刺さり、絶命する。
「うへぇ」
一方の酔っ払いは、尻餅をついて、その場でぜーぜーと息を整える。
「あ、りが、とう……」
「あ? うん……」
欲望の地下鉄が、停車駅に着く。
なんだか、そんなイメージが想起された。
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