第35話 筆持て立て。剣を取る者は皆、剣で滅ぶ【第一話】

文字数 3,932文字

 わたしは彼是(かれこれ)十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛してゐた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残つてゐる。かう云ふわたしは北原白秋氏や木下杢太郎(きのしたもくたろう)氏の()いた種をせつせと拾つてゐた鴉に過ぎない。それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じてゐた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のやうに病的な興味を与へたのである。わたしはやつとこの頃になつて四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云ふ人を愛し出した。クリストは今日のわたしには行路(こうろ)の人のやうに見ることは出来ない。それは或は紅毛人たちは勿論、今日の青年たちには笑はれるであらう。しかし十九世紀の末に生まれたわたしは彼等のもう見るのに飽きた、――(むしろ)倒すことをためらはない十字架に目を注ぎ出したのである。日本に生まれた「わたしのクリスト」は必しもガリラヤの湖を眺めてゐない。赤あかと実のつた柿の木の下に長崎の入江も見えてゐるのである。従つてわたしは歴史的事実や地理的事実を顧みないであらう。(それは少くともジヤアナリステイツクには困難を避ける為ではない。若し真面目に構へようとすれば、五六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである。)それからクリストの一言一行を忠実に挙げてゐる余裕もない。わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。いかめしい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。

     芥川龍之介『西方(さいほう)の人』「1.この人を見よ」より抜粋







 午後十時。
 僕、萩月山茶花の部屋では、オーディオシステムからザ・シュガーキューブスのアルバム『ライフズ・トゥ・グッド』が流れていた。
 選曲は、僕の対面(といめん)のソファで足を組みながら座り、蔵王土産のクリームチーズを食べカクテルのキューバリバーを飲んでいるこの男、破魔矢式猫魔による。
 シュガーキューブスといえば言わずと知れた世界の歌姫・ビョークがソロデビュー前に在籍していたバンドで、その曲はとてもソウルフルだが、ポップ性も抜群で、上手いバランスが取れていることで有名だ。
 ここは常陸国の常陸市にある百瀬探偵結社事務所のビルだ。
 ビルの一室が、僕の住まいになっている。
 探偵結社の他のメンバーもそれぞれ、ビルの一室を自室にしている。
 僕の目の前にいるこの〈探偵〉もまた、このビルに住んでおり、今夜は僕のところに宅飲みしに来ている、というわけだ。
 その男、猫魔はグラスを傾けながらシュガーキューブスに耳を傾けている。
 僕は彼に訊いてみる。
「キューバリバーは美味しいかい、猫魔?」
 猫魔はケラケラ笑って答える。
「ああ。美味い。しかも、どこにでも売ってる材料だけで簡単に自分でつくれるしな。素晴らしいよ」
「いや、カクテルつくったの、僕だからね?」
「おれがつくるより山茶花がつくった方が美味いからな。おれは山茶花のつくるカクテルが好きだぜ」
「そーですかー、っと」
「そうふてくされるなよ。ふてくされるほどの手間でもなかったろ? それに自分用につくったスクリューがあるだろうに」
「スクリュードライバーね。まあ、スクリュー用には百パーセントのオレンジジュースが合うんだけど、最近、百パーのオレンジジュースが近所のコンビニにも置いてなくて困っているよ」
「酒屋へ行けよ」
「そりゃそうだ。置いてあるし、安値で手に入る」
「山茶花のつくる料理もカクテルも、アートの域だよ。芸術だ。美味さは美と重なる」
「はは。客に料理を出すタイプのパフォーマンスアートも僕は良いと思うけどね、コンセプトとして。料理がアートなのか、アートとしての料理なのか」
「地域共同体の空洞化をえぐり出す効果があるよな、料理を出してその場で食べてもらうパフォーマンスアートには」
「ここ、常陸もずいぶん共同体の空洞化が進んでいると思うよ。いや、企業城下町だから、町の工場で働いてないことで、僕らがたんにハブられてるだけかもしれないけどね」
「探偵業のおれたちが群れてどうするんだよ、山茶花。お前は本当にバカだな」
「余計なお世話だよ、猫魔。ところで、明日は水戸の美術館に行くんだろ。水戸芸術館へ」
「そうだぜ。常陸国で現代アートと言えば水戸芸術館だ。まあ、用事があるのは主にその横に建ってる〈水戸アートタルタロス〉なんだけどな」
「僕はわからないんだけどさ、〈これってアートなの?〉って作品が現代アートにはたくさんあるけど、水戸芸術館てのは、そういうのを専門に扱う、日本でも有数のコンテンポラリーアートの、いわばメッカじゃないか」
「展覧会によって、展示品総入れ替えの美術館だが、な」
「〈これってアートなの?〉って作品が故に、よくこれが公費で大丈夫だな、って思うことも多いんだけど。素人の僕から観るとね。どういうロジックなんだい?」
「ふむ。公費でやる、そのロジックはなにかというと、現代美術は市民革命後のヨーロッパのロジックで、だろうな。公権力に対する『抵抗権』を『市民』は持っていて、常にこの暴力装置である国家を監視しておかないと、暴発すると考える。美術館という公的空間という〈権力〉を持った場所に置かれたときに、アート作品はアート作品になる。美術館という〈権力装置〉に置かれることにより、それは工芸品でも工業製品でもなく、アートはアートになる。つまり、悪い言い方をわざとすれば、〈権力〉や〈権威〉を〈笠に着る〉ことによって、アートはアートとして力を持つ。逆説的に、それを利用して、異形のものを〈化けさせる〉ことが可能だから、その『制度』を〈利用〉して、化けるのではなく、発信側からわざと〈化けさせる〉という魔術(マジック)……〈戦略〉をとることが多くある。それはマルセル・デュシャンの『レディメイド・シリーズ』からの伝統で、常套手段だ。わかりやすい戦略だと、例えばそれで〈公権力〉が〈暴力装置〉であることを〈暴露〉させるってわけさ」
「話が見えないよ」
「それはつまりアートをアートたらしめるために、公費でなければ〈効果〉が出ない場合もあるってことさ。公費……つまり〈国家〉という〈権力〉の力でなければ、な。そういうロジックだ。もちろん、〈憲法というのは国家を縛るためのもの〉だぜ。ただし、公権力の力を得るという発想の時点で、それは利用した奴は自分もギロチン行きで首を刎ねられることは覚悟できなきゃ嘘だと、おれは思うけどね。過激なことを言うようだが。そう思う」
「ギロチン。つまり〈市民革命〉から繋がっているってことでいいんだよね」
「でも、日本で西洋の市民社会のロジックを行使するのは難しい。日本という国、正確には日本国の成り立ちのことを考えなくちゃならない。革命でギロチンにかけることを経験していないのは有名な話だ。王権神授説をギロチンで切断して〈人権〉と、それによる〈自由〉の〈権利〉を〈勝ち取った〉わけではなく、まるで空気のように〈与えられたように当たり前にそこにある〉のが人権だと日本人は思ってる節があるな」
「確かに、この日本という国を考えると、そうだね。人権や自由って、最初から当たり前にあるかのように僕もよく錯覚するよ」
「だが、日本にも人権が民衆の力で生まれたのであり、その革命があったとする立場のひとたちもいる。〈八月革命説〉というのがあって、それのことなんだ。学校ではお仕着せ憲法として急ごしらえしたように習うのだが、そんなことはなく、敗戦して〈無理矢理つくらされた国〉なのではなく、国として続いて行き、延長線上で革命があり、日本国憲法が出来た、とする説だ」
「八月革命説? 初耳だな。なんだそりゃ」
「大日本帝国が敗戦して、GHQは新憲法の草案を日本人につくらせられたのだが、天皇主権のままだったことも含め、読んだGHQに『これじゃ前となにも変わらない』と却下され、代わりにマッカーサー草案が出された。それをほぼそのままにしてつくられたのが日本国憲法だ。マッカーサー草案は天皇の地位を国の元首と位置づけること、戦争の放棄、封建制の廃止の三原則を基礎とした」
「有名な話だね」
「でも、日本国憲法には『上論』がある。『朕は……』で始まる文章で、これが上論といって、憲法制定における天皇の形式的な〈おことば〉だ。日本国憲法というタイトルの前に書かれているから憲法の一部ではないので注意だな。これがどういう効果をもたらすかというと。天皇が帝国憲法の改正として制定させた欽定憲法で、主権を国民にするために、憲法を手続き的に改正したのである、ということを、それは表わしている。これを、『八月革命説』と呼ぶ」
「つまり、主権を国民に譲った、と。そしてそれは帝国憲法を改正できる天皇だから制定できた、と。譲ったわけだから、他国ではなく自国民がそれを勝ち取った、と。それが〈革命〉なんだな」
「ざっくり言うと、そうだよ」
「そんな特殊事情があるんだな」
「だが、だ。〈自由というのはつかみ取るもの〉であって、〈最初からあるものでも、与えられているものでもない〉という意識が、残念ながら、この国のほとんどの人間の頭の中には、ないな。元々は明治政府がワイマール憲法を模して大日本帝国憲法をつくった、その時点で、今とは規模が小さすぎるとは言えども人権は盛り込まれていたわけだからな」
「そういう国でコンテンポラリーアートを語るのは難しい、か」
「九十年代に水戸芸術館で開かれた展覧会のキュレーターの書いた本では、日本とは〈悪い場所〉だ、と論じていたな。同じことが繰り返される場所としての、悪い場所、と」
「なるほどねぇ。……人権と自由、か」


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