第54話 丸の内莉桜は失わない【最終話】

文字数 4,691文字

☆☆☆


小冊子『地図にない町』最新号ができた。
わたしの書いた小説も、掲載されている。
書いた小説が掲載されるなんて体験は生まれて初めてだったから、胸が躍った。
わたしの毎日はどんよりとしているけど、それでも、まあ、前よりはマシになった。
まず、しゃべれるようになったことが大きい。
それを医者は、医療のおかげだ、と言い張る。
実際は、あの柴犬が氷の刃に突き刺さった時に、変わったことなのだが、それを理解してもらおうというだけ無駄であろう。
下手すれば入院騒ぎに発展するから。
今日は同人誌即売会だそうだ。そこで、わたしたち環八雲研究会の『地図にない町』も売られるのだ。
わたしは、閉場する一時間前を見計らって、その会場に赴いた。
そこでは売り子をやっている七水さんの姿があった。
「こ、こんにちわ」
わたしが挨拶すると七水さんは、
「すみません、完売しちゃいました……、って、あ、莉桜ちゃん。こんにちわ」と、ぺこりとわたしに頭を下げた。
「完売、したんですか」
「ええ! ばっちりです! オンデマンド印刷の二十部ですけど」と、印刷の用語を交えながら、胸を張ってそう言った。
わたしは即売会の会場をぐるりとまわってから、最後にまた七水さんに挨拶する。
「え? もう行っちゃうんですか。これから飲み会だぞ」
「いえ。今日は部屋に戻ります」
「そっか。んじゃ、また」
「多々良さんとららみゅうさんにもよろしく」
「はいなー」
やりとりを終え、わたしは自分の部屋へと急ぐ。


☆☆☆


ぐつぐつ煮える鍋の音。
カレーの匂い。
わたしは好きだな、カレーの匂い。
だってカレーはわたしの大好物で。
今、キッチンでカレーを煮込んでいるのは、紫延詩乃ちゃんだから。
「あのとき、わたしはカレーごといなくなっちゃったもんね」てへ、っと舌を出す詩乃ちゃんは、やっぱりかわいくて。
彼女のどこが怪物なんだろうか。
いろんなひとが混じった幻影なんかじゃなく、ここに詩乃ちゃんは、存在する。
ある日、わたしが部屋の鍵を開けると、そこには詩乃ちゃんの姿があった。
帰ってきたのだ、この部屋に。詩乃ちゃんが。
「わたしは確かに、最大公約数が導き出した幻に過ぎないかもしれない。でも、それを言ったら、今のこの高井戸も、真っ暗なトンネルを走る一台の地下鉄でしょ。今、世界はそのインナースペースをお掃除してるから。内宇宙の最適化。断片化されたものを再統合してる最中なのよ。失調したこの宇宙の、統合を」
「ううん」
わたしは首を振る。
「そんなのどうでもいい。詩乃ちゃんさえ戻ってきてくれれば、それでわたしはかまわな
いの」
わたしは、足の低いテーブルに正座しながら、キッチンを眺めて、そう言った。
「裸エプロンにすればよかったかしら」
「じゃあ、食べるとき、二人で裸になって食べよ! すぐにじゃれ合えるように」
「いいよ」
「やった」
「ゆりんゆりんにしてあげる」
わたしの声は戻った。あの柴犬の怨霊がいなくなった時に、解放されたかのように、声が戻った。
声が戻ったことで、わたしは、一歩を踏み出すことができた。
一歩を踏み出すと言ったって、それはバイトを始めるとか、そんなのじゃなくて。
生きる活力がわいたという、そんな心の中のお話で。
「カレーできたよー。さー、脱げー」
カレーをテーブルに置くと、詩乃ちゃんがわたしの上着を脱ぎにかかる。
「ちょっと待って。自分で脱ぐ」
「えー、つまんなーい。脱ぎっこしよー」
「わ、わかった」
わたしたちは互いの服を交互に脱がせていく。
下着もすべて脱ぎ終わったところで、わたしは詩乃ちゃんに抱きしめられた。
「戻ってこれて……、本当によかった…………」
「し、詩乃ちゃん?」
詩乃ちゃんは泣いていた。その涙は、ずっとためていたかのようで、とめどなくあふれだした。
泣きながら、詩乃ちゃんはわたしを押し倒しにかかる。わたしは身体を詩乃ちゃんに預ける。
詩乃ちゃんがわたしの乳房を口に含み、舌で転がす。
わたしは吐息を漏らし、目を閉じた。
しばらくの愛撫のあと、目を開くと、詩乃ちゃんはもう泣き止んでいた。
「わたしは夢の中の存在」
花弁をさすりながら、詩乃ちゃんがささやく。
「でも、夢の中で見た、さらにその中にある夢には、わたしは入っていくことができなかった。なぜなら、わたしは夢がつくりだした存在だから、夢の階層が一段階下がると、その存在が維持できなくなってしまうから」
蜜をたっぷりつけながらつぼみを優しくさわる詩乃ちゃんの、その言ってる意味は、なんとなく理解できた。
「でも、夢の深層から戻ってきたから、再びわたしの存在はその存在を許されるようになったの」
蜜のとろけるその中に指を差し入れられると、わたしは「ひゃぅん」と、嬌声を上げてしまう。
「夢かたちづくるわたしは、莉桜を喜ばせるためにいるのよ。……こういう風に」口腔に舌が侵入してくる。
わたしは、どこまでも、どこまでもとろけていく。
自我の境界線が、なくなってしまうほどに。
今、わたしは誰に抱かれているのだろう。詩乃ちゃんが夢の中の存在だとしたら?
じゃあ、わたしが戯れるその存在とは誰?
「カレー、冷めちゃうね」
わたしは詩乃ちゃんの耳元に息を吹きかけるように言う。
「いつだってあたためられるわ。今は莉桜をあたためるの」
「うまいこと、言うなぁ」
とろけるような時間が、そうして過ぎていく。


☆☆☆


高井戸中央精神病院のロビーで、わたしは柴犬がくわえてきたバロウズの本を読了する。
バロウズは文字通り「小説を解体したひと」だ。いや、解体したあとに再構成させる。今で言う、リミックス。
バロウズがやったようなカットアップは、長い目で見なくても、いずれ小説が人間の手を離れていってしまうことを、暗示しているかのようにすら思えてくる。
かくいうわたしもこの病院の精神透視で、脳内から情報をサンプリングされる。
サンプリングされたイメージはどこへ行くのだろう。
まさかそれらをリミックスして、紫延詩乃という人格を後付けででっちあげ、このインナースペースに放り込んだのだとしたら……。
バカらしいかな。
でも、それもできるよね。おそらくは。
だから結局わからないのだ。わたしはなにもわからないし、知らされてない。わたしのまわりでいつもわたしを抜きにして情報が飛び交っていたあの頃のように、今だって同じことが繰り返されてないと、誰が言えるんだろう。
点滅する人間。消えたり、現れたり。それがわたしにとっての、実在する詩乃ちゃんだった。
もうじき、なにか掴める気がする。それは自信というにはほど遠いけど。
もう一度文章を書くことに戻ったわたしは、暗闇から今も手を伸ばしているから、だからきっと……。
精神透視実験を今日も行うと、スクリーンには幼い日のわたしが公園で遊んでいる様子が映し出された。
幼稚園生の頃。でも、幼稚園じゃなくて、隣町の公園で、遊んでいた記憶。
そこにはデュオ、という少女が砂場ではないところ地面に、穴を開けていて、わたしもそれを手伝っていた。
デュオはなんでデュオって名前かというと、木の枝で「デュオ! デュオ!」と叫んで毛虫を撃退するからであった。
わたしが穴掘りを手伝いながら、
「穴を掘ってどーするの?」
と訊くと、
「入るの。穴の中。ウサギ穴はないから」
と答える。ウサギ穴とは、アリスの一節に出てくる、あの穴のことだろう。
デュオは冒険をしたかったのだと思う。
デュオが倒す毛虫は、凶悪なモンスターだったのだと思う。
小学生になったとき、一年間だけ、わたしはデュオとクラスが一緒になった。
デュオは『嘘つき』として有名だった。
しかし、嘘つきとなじられても、デュオはいつも笑顔だった。
塾の帰り、家のごたごたで親の迎えがなかった一時期があって、そのときわたしは、デュオと幼稚園生の頃遊んだ公園に立ち寄ったことがあった。
真っ暗な公園でデュオは、必死になって穴を掘っていた。必死に、必死に、学校じゃ見せない真剣さで、砂場じゃないところに、小さなスコップで穴を掘っていた。
わたしは見てないふりをして、公園を去り、家に帰った。
精神透視でスクリーンに映し出されたその映像を見て、わたしはため息をついた。
てっきり繭に閉じこもったわたしと詩乃ちゃんの映像がらぶらぶに流れるものだとばかり思っていたから。
医者は言う。
「これが、たぶん今、丸の内さんの精神と一番合致した映像でしょう」穴を掘って、嘘をついて、墓穴を掘ってる。
そんな映像が。
「先生。分析するんでしょ、これ。分析して、それで今のこの状態が改善するの?」
「最先端医療ですからね。その言葉の意味、わかりますか。丸の内さんは回復に向かっています。声が出るようになるとは、こちらとしても驚きです」
診察室を出て、わたしはふと思う。
墓穴を掘っていたのは、デュオであり、そしてわたしでもあるのだろう、と。
渦巻く糸杉の森を歩きながら、わたしはスクリーン、表層にまで到達してしまった遠い過去の記憶と対峙することにした。
わたしは緑地帯に入ると、病院の売店で買った小さなスコップで、雑草混じりの地面に穴を掘る。
穴を掘ると、土の中がミミズであふれかえっていた。が、わたしはミミズごとスコップで刻み、穴を掘り進める。
ミミズを刻む時は「デュオ! デュオ!」とつぶやく。
掘って掘って、掘りまくった。
日が暮れた頃、作業をやめにする。
開いたのは、大きな虚(うろ)だった。
墓穴を掘ると、虚無が大きな口を開けるんだ、ということをわたしは知った。
すべてはそういうことなんだと思う。
書くことも、しゃべることも、みんな虚の中に放り込まれるものなんだ。わたしの書いたもの、わたしがしゃべったこと、それにわたしの記憶。
全部放り込まれて、虚数空間へ行く。
こころの地下鉄は、大きな虚の中を疾走するんだ。
ぽっかり空いた、すべてを飲み込む大きな虚の中を。
そりゃ、国境がないわけだ。虚の中では、すべてはつながっている。
文学の反逆者は詩乃ちゃんであり、デュオでもあった。
そこにわたしの名は連なるだろうか。
文学を生きること。
人生が文学であること。
それこそが反逆であり、彼ら、彼女ら反逆児が書いた作品こそが、心の深層を走る地下鉄のタービンを駆動させるのだ。闇夜を突っ切るには、闇夜の力が必要なんだ。


☆☆☆


星がきれいな夜だった。
部屋のベランダに出てビールを飲みながら。わたしは詩乃ちゃんに尋ねる。
「これからわたしたち、どうなっちゃうのかな」
「星座って地球の人間が考えたものじゃん。一瞬、それ考えると萎えるっていうか、星は宇宙のものなのに勝手に神話モチーフでこれはこういう星座です、って説明されてもロマンがなさそう、って思っちゃうじゃない。でも、星座にロマンがないって考えるのは、星を見なくなったからだよ。夜空の星を見上げるようになれば、そこにはロマンが生まれる。大航海時代に大海原で明日の身もわからないひとたちが星座を見て、ロマンを感じないなんてことがあるかしら。……きっと、そういうことよ」
「わからない。どういうこと?」
「今の莉桜は輝いてきている。それはきっと、明日の我が身もわからないからこその輝きよ。違うなぁ。きっとそれはわたしの方も、なのかも。莉桜がすごく輝いてみえるのは、わたしという存在がいつ消えてもおかしくないから、……とか」
「もー、こんな場面で、締まりがないなー」
「そんなもんよ。人生は往々にして冗長。だけど、永遠は一瞬で決まる」
互いにビールの缶を引っ込めたわたしたちはベランダで、長いキスをする。
月は渦巻いているけど、それでも、それが現実ならば、生き抜いてみせないと。今ならそう思えるわたしなのでした。


〈了〉
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