第72話 北茨城の風船爆弾の話

文字数 543文字

 北茨城市に風船爆弾を飛ばした跡がある。
 北茨城大津の風船爆弾放球台跡だ。
 平潟港から南に歩いて、五浦海岸にアクセスする県道354号線の脇にある円形の空間。
 それが風船爆弾を放球した台座の跡だ。
 台座がコンクリートで出来ている「風船爆弾放流大津基地」跡。昭和19年11月に「ふ号兵器」として実用化。
 ジェット気流を利用し気球に爆弾を乗せ日本本土から米本土空襲を行う、というものだった。
 風船爆弾は約9000発放球された。
 開発したのは陸軍中野学校の諜報員用にもアイテムを開発していた登戸研究所。
 今は陸軍登戸研究所跡は、明治大学生田キャンパスになっている。

 風船爆弾、当初は細菌兵器を搭載する予定で牛痘ウィルスは実用可能になっていて搭載可能だったけど、昭和天皇が裁可しなかったので実際には15キロ爆弾1発と5キロ焼夷弾二発の搭載になったらしい。
 細菌兵器と言えば、日本の731部隊の話題はしない方がいいらしいけど(とてもセンシティブなので)、風船爆弾も負けず劣らずセンシティブだということがわかった。
 この風船爆弾についてはアメリカも「焼夷弾じゃなくて細菌兵器持って来られたら…………」と相当神経尖らせてたらしい。
 それもあってか、報道管制をしいて日本側に知られないようにしたという。
 
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