プロローグ

文字数 1,750文字

 五月のうららかな陽射しが教室内に満ちあふれ、そろそろ新しい環境に慣れてきた生徒たちの眠気をひきおこす。
 窓際の席ではないわたしも、うっかりと周囲の雰囲気に誘いこまれていた。
 黒板の前で話す、担任である現国の先生の言葉に集中しているつもりでも、いつのまにかぼんやりときいている。

 平和な日常。
 ずっと続くと思われた穏やかな風景。

 けれど、そのとき運命の扉が開かれた。
 正確には、教室の前の引き戸がゆっくりと開けられたのだ。


 何事かという表情で、先生が教科書を手にしたまま教室の入り口へと向かう。
 たちまち、眠気が飛んだらしい生徒のあいだから、ざわめきが起こった。

「なにかあったのかな」

 隣の席の晴香(はるか)が、少し顔を寄せてささやいてきた。
 わたしは小さくうなずいて、晴香と一緒に教室の入り口を見る。

 出身中学の違う晴香は、高校で同じクラスになって知り合った友だちだ。
 ちょっと細身の体型に新しいネイビーのブレザー、チェックでホワイトが入った膝上のひだスカートがとても似合っている。
 大きな目にいつも楽しそうな口もとは親しみやすそうで、席が隣り合ったわたしは、とても幸運だ。

 肩にかかるさらさらの黒髪を揺らしながら、晴香は首を伸ばす。
 つられるように、わたしも興味津々の目で、先生と話をする相手は誰だろうかと呑気に伸びあがった。
 その瞬間、廊下に立っている相手の顔が少しだけ見えた。

 険しい表情を浮かべているが、それがさまになっている端正な横顔。
 あれは三年の生徒会長だ。
 たしか、綾小路凪(あやのこうじなぎ)という名前だった。
 ふたつも学年が上なので直接言葉を交わしたことはないけれど、何度か生徒集会の壇上マイクの前で話をする姿を見たことがある。
 家柄も良く、クラスメイトの中では憧れる子もいたが、本人は冗談も口にしない堅そうなタイプだと、いつも目にするたびに思っていた先輩だ。

 その上級生が、なんの用事だろうと思ったとき。
 話が終わったらしい先生が教室内を振り返る。
 そして、わたしの顔に、ピタリと視線をとめた。

木下桂(きのしたかつら)、ちょっと来い」

 先生の声を、まさかと思っているわたしは聞き逃して返事をしなかった。
 慌てたような晴香が隣から、わたしの肘を突っつく。

「桂ちゃん、先生が呼んでるよ」
「――え? あ、はい」

 自分が呼ばれたことに気がつき、わたしは急いで立ちあがった。

 授業を中断してまで呼びにくるなんて。
 家で、あるいはお父さんとお母さんの身に、なにかあったのだろうか?
 良くないことだけが頭の中に浮かび、わたしは、クラスの皆に注目される中でクラリとめまいがした。
 頭に血をのぼらせながら、なのに、手の指先だけは異様に冷えていく。
 それでも、どうにか歩きだしたわたしは、先生のもとへ近づいた。


「木下、荷物はそのままでいい。いまから校長室へ行きなさい」

 教室の入り口まで近づいたわたしへ、眉間にしわを寄せた先生が言った。
 呆然としたまま、わたしは返事ができずに先生の表情を見る。
 先生のこの顔。それに校長室?
 やっぱり家で、なにかあったんだ!

 そのとき、蒼白になっていたわたしの耳に、低音で凛とした声が響いた。

「先生、ぼくがつき添って木下さんを校長室まで連れていきます」
「あ? ああ。よろしく頼む」

 戸惑ったような先生との会話を聞いて、まだ生徒会長が廊下にいたことを、わたしは思いだした。
 先生の顔から声がしたほうへと視線を移したわたしは、そこで初めてこちらを向いた生徒会長と目があった。
 その向けられた視線に、異様なほど鋭いトゲが含まれているのを感じ取り、一瞬でわたしは心臓が縮みあがる。

 なんで?
 どうして生徒会長は、こんな目でわたしをみるのだろう?

 いろんなことが立て続けに起こったわたしは、生徒会長に促されてふらふらと歩きだした。
 だから、その後ろで先生のつぶやきが聞こえたけれど、わたしの耳には意味を持った言葉として入らなかった。

「同時期に四人目か。我が校はじまって以来だ。さぞかし校長は喜ばれているだろうなぁ」

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